青木神社(あおぎさん)

平成四年三月発行の「金栄ふるさと誌」の「青木神社」の章から、花房新兵衛と小早川秀包の槍合わせについて独自考察する。

 

まず、所在地 新居浜市政枝町一丁目八番とあり、現在の青木神社は滝の宮公園通り道路工事により移され、政枝町一丁目九番にあるが、往時は滝の宮橋を東側へ渡ってすぐ二軒目左手にあった。

滝の宮口に長曾我部元親の援軍

同章に“滝の宮口に陣取った金子勢に、高知の長曾我部元親の強力な援軍が加わり、気勢があがった守備隊は、何倍もの敵兵をものともせず滝の宮口から政枝、横水方面で激戦を繰り広げ、何百人の人がなくなったと伝える。”とある。

 

また、白石友治氏著「金子備後守元宅」の「金子城の激戦」の章にて、“花房新兵衛は(片岡)光綱戦歿後尚馬淵口を死守して居たので、恐らく片岡の軍とは別の一隊なりと断定したのである。”として、金子城への土佐の援軍は片岡光綱と花房新兵衛の二軍あったとご自身の見解として述べているのであり、何らかの文書を引用した訳ではないことを記している。

 

さらに、郷土史談 第二巻第六号(1976.6新居浜郷土史談会)に白石正雄氏が記した「金子城趾をめぐる地誌について」の五、滝の宮地蔵堂に“〜前面は天正陣の古戦場滝の宮口と言われ、土佐援軍の将花房新兵衛の守備したところと推憶される。毛利小早川の大軍との攻防戦のはげしかった事を物語るものとして滝の宮口に両軍の戦死者を集めて葬ったと伝えられる塚が私の調査では四十一か所このせまい所にある。”としている。

青木神社(新居浜市政枝町)

上の郷土史談の同章の二十、青木神社には“政枝の西端にある喘息の神として今だに庶民の尊崇が高い。政枝の古老の話では天正の陣で喘息の発作の為敵に討れた勇将を葬ったところとの事であるが、その名は伝わっていない。”とある。

 

また、金栄ふるさと誌の青木神社の章には“政枝部落のあちこちに「お塚さん」があり、その数の多いのに驚かされる。それらは、この天正の陣で亡くなった人たちのものだと伝え聞く。〜省略〜青木神社もこの「お塚さん」の一つである。神社の祭神の青木某という人は、名のある武将であり、喘息を患っていたという。激しい戦の最中に、喘息の発作が起き、これが元で敵に深手を負わされ、青木神社の現在(平成四年三月)の地でなくなったと伝える。本人に喘息さえ患ってなかったらという気持ちが非常に強くて、喘息が治っておればという本人の気持ちが後々まで残ったのであろう、後の世の人が、神社の祭神に畏敬の念を表し、心を込めて祈れば、必ず治るという霊験を持つにいたり、今の世でも喘息を患っている人の参拝が絶えない。〜省略〜昭和二十五年頃の記憶では、神社前面の格子戸の扉に数多くの草履が掛かっていたように思う。足が悪い人であったという古老の話を聞いたような記憶もあるのだが。”としている。

 

現在の地に移った青木神社に掲げられる由来には、“天正十三年七月豊臣秀吉の四国征伐、いわゆる天正の陣において小早川隆景の軍勢が金子城に押し寄せたとき、政枝も戦場となり、何百人もの人が亡くなったと伝えられているが、当時金子城随一の豪将として名高き青木刑部は、持病の喘息を物ともせず、折からの増水した金子川を渡り政枝を見廻中、敵と遭遇し激しい戦いの最中に喘息の発作が起き、敵に深手を負わされ、これが元で亡くなったと伝えられている。当時の政枝の住民は青木刑部の菩提を弔う為に供養塔を建立して霊を慰めた。其の後大正十二年、信仰厚い政枝の二十三名の篤信者が周囲の土地を購入し、社殿を建て、青木刑部を祭神として祀り、呼名を青木神社と定めた。後の世の人が、神社の祭神に畏敬の念を表し、心をこめて祈れば、必ず治るという霊験が人々の口伝えに拡がり、喘息、咳に悩む人の参拝が絶えない。”とある。

青木神社(今治市宮下町 姫坂神社境内社)

青木神社由緒には、

一、祭神 少彦名神

一、神徳と沿革祭神 医学の神様として広く信仰されている少彦名神様は、太古各地を巡って医術と医薬の道を指導し大勢の病人を救済なさった神徳の高い神様であります。

青き通り(現、北日吉町一丁目)は少彦名神様のご駐蹕の古跡に小千国造が神籬を立てて祭祀を行ない、のち社殿を造営された大そう古い神社であります。

江戸時代藩主の祈願所として庶民の信仰あつく、病に悩む人々特に「咳」の守護神として祈願と感謝に奉納する草履は相当の数であったと伝えられています。

明治四二年にここに遷座されましたが今も霊験を頂く祈願者は市内一円から附近の町村からそのあとを断ちません。

とある。

独自考察;喘息により討たれた青木刑部は口碑による創作である

上二つの「青木神社」の由来をどう読まれるだろうか。

 

まず、新居浜の青木神社の由来を時系列で見てみると、1976年の郷土史談では“その名は伝わっていない”とされ、平成四年の金栄ふるさと誌では“青木某”とし、現在の地に移った後の由来には“青木刑部”としており、口碑に残るのみである筈であるのに、新しい記述ほどにその名が明確になっている。

 

また、現在の由来に“当時金子城随一の豪将として名高き青木刑部”とあるが、白石友治氏著の金子備後守元宅にも、毛利家や土佐の古文書にもその名は見られない。

 

さらに決定的なのは、その由緒が新居浜の青木神社(大正十二年)よりも圧倒的に古い、今治の青木神社の由来が、新居浜の青木神社に伝わるものと酷似しているのである。

 

これは、このように近い二つの神社が偶然にも同じ名前で、祭神が異なるにも関わらず信仰はまったく同じ「咳」であり、さらに偶然にも草履を奉納するのも同じであるということなのであろうか。否、私はそうは思わない。自然な考察として、新居浜の青木神社は今治の青木神社の分祀であり、喘息の話は、新居浜の青木神社が「お塚さん」であった大正十二年以前に、喘息の治癒をこの「お塚さん」に祈願した者があり快気したことから、この「お塚さん」にそのような霊験があるとされ、やはり同様の霊験のある今治の青木神社をこの「お塚さん」のあった地に分祀したといったところではないだろうか。そして神社の名が時を経て「お塚さん」に眠る武将の名とされ、青木某、青木刑部と創作されたものであると独自考察するものである。