金子城 滝の宮口の戦い

花房新兵衛ならびに青木神社(政枝)の独自考察を前提とし、さらに滝の宮口の戦いを独自考察してみたい。

小早川秀包の金子城進軍

小早川秀包が馬淵口にて花房新兵衛を討ったのではないとの独自考察は、花房新兵衛の頁にて説明しているのでそちらをご覧いただきたい。

 

また、同頁で考察している通り、金子城を経由して宇摩郡表へ大物見の際、小早川秀包が先行して進み、花房新兵衛を討った後、総勢(※東兵に合流したということであろう)で金子城を落としたということは、実際にこの地を歩いてみると分かるが、上のgoogleマイマップに表示しているような経路を進軍したと考えて大きなズレはないと考察するのである。

花房新兵衛終焉の地は

【萩藩閥閲録 羽柴秀吉朱印状 小早川秀包 伊予宇摩郡戦功ヲ賞ス】の独自解読は花房新兵衛の頁をご覧いただきたい。これが「花房新兵衛」という名が唯一記されている文書であり、小早川秀包が討ち取ったと自らの戦功の一つとして報告している。

この中で“長曾我部元親より加勢之花房新兵衛”とあり、花房新兵衛が自ら名乗りを上げたか、もしくは討ち取った武将の旗指物から判断したものかどちらかであろうと推察する。

 

どちらにせよ、小早川秀包が自らの戦功を秀吉に報告するに値する者を討ち取ったであろうことは間違いないのではないだろうか。

 

この小早川秀包の手控えの内容に加え、青木神社(政枝)の頁で独自考察した内容から、政枝部落に数多くあった「お塚さん」の中でも青木神社のあった処の「お塚さん」だけが特に語り継がれ、この地に斃れた武将について、“勇将”“名のある武将”“金子城随一の豪将”などと口碑しているのであるが、その名は正確には口碑されていない。

これはどういうことであろうか?

私はここで斃れた武将は天正の陣に於いて金子城に籠る城兵にとって、さらにはこの地の民にとっても頼りに思い、鼓舞されるような存在であったことが想像できる。

さらに、口碑によるとその名が正確に伝わっていないということは、そのような名将であったにも関わらず、そもそも地元の将兵や民たちにその名を知る者が少なかったということではないだろうか。

このような想像から、この「お塚さん」に眠る武将は土佐からの援軍の将であったと思われ、北谷口で討ち死にした片岡光綱の他に該当する将といえば「花房新兵衛」しかおらず、

 

小早川秀包一隊が花房新兵衛を討ち取った場所は、この(青木神社の元の場所)「お塚さん」があった、金子城 滝の宮口の前面、現在の滝の宮橋を渡ってすぐの政枝の地であったと独自考察するところである。

滝の宮口の戦い

これまでの花房新兵衛に関する独自考察を総合すると、滝の宮口での激戦の模様が想像できる。

 

(滝の宮口の戦い経緯)※独自考察

・花房新兵衛と金子城 滝の宮口砦の守備兵五十騎(※萩藩閥閲録)は、金子か城を通って小早川軍大物見の本隊五十騎ばかりから突出した小早川秀包の手勢四十騎を確認し、そのいでたち、武具から名のある武将であるとし、滝の宮口から、金子城の外堀というべき金子川(現 東川)を渡って討って出て、小早川秀包の一隊と対峙した。

 

・小早川秀包の手勢には、歴戦の将 桂広繁、白井景俊等をはじめ、いまだ齢十八の秀包を援け、討たせることのないように精鋭揃いであり、その兵差も拮抗(五十騎対四十騎)していたことから激戦となり、両軍多くの戦死者を出した(政枝部落に多くあったお塚さんが物語る)。

 

・激戦の中、秀包ただ一人を討つべく駒を進めた花房新兵衛であったが、秀包と槍を合わせたところで、秀包を囲い守る将兵達に阻まれ、平対馬の手により討ち取られた。

 

・花房新兵衛を失った金子の将兵は、金子川(現 東川)を渡り、滝の宮口より城中へ退却、小早川秀包はこれを深追いせず、金子城を西に、宇摩郡を東に見ながら北上し、(現 金栄橋東側に陣を張る)吉川軍東兵と合流。

 

・吉川・小早川総勢の総攻撃により金子城落城。