伊東近江守祐晴

千町に土着した伊東近江守祐晴とは誰か

土佐からの援軍と言われ、桑瀬越えして向かったが、

高峠落城に間に合わず、千町に土着したと言われる伊東近江守祐晴。

その出自はどこか?

大川村・本川村の五党

土佐街道の一つ、桑瀬越えをして最初に通る要衝である本川村から大川村、

『西は、松山御領、北は西條御領井に御蔵所へ鄰(隣)る。四国第一の深山幽谷也、昔は土佐にもあらず、伊豫へもつかず、川水の悉く阿州へ流るゝと云えども、阿波へも党せず、筒井、和田、伊東、山中、大薮の五党此郷をわけて司るとなん』

と言われた五党のうちの一党。

伊豆国伊東の豪族で東国平家方の武将 伊東祐親の子孫

大藪紀伊伊藤祐親流とある。(川部正武 氏「武将系譜辞典」より)

 

伊東祐親は平家方として敗れた。

平家平の麓であるこの地に一門と共に落ち、土着した者が始で、その子孫であると考えられる。

伊東新助による鏡の城築城

大川村の文化財に、大藪の鏡の城跡(海抜約900mの城の森山にある。延元二年/建武四年(1337年)伊東新助の築城という。)(別名;大藪城)がある。

 

※1335年「宗家 伊東祐持」は足利尊氏に従い、楠木・新田と各地に転戦。尊氏の信頼を得て、要請して恩賞として日向国都於の領地に「都於郡城」を築城。このころの伊東氏は良い時代であったので、大川村の伊東氏も栄えたのではないだろうか。

本山五党 大藪紀伊守祐宗

土佐七雄の一つで、戦国時代、本山茂宗の頃には土佐の豪族の中でも飛び抜けた存在となった本山氏。

 

この本山氏の有力家臣として本山五党と呼ばれ、その後、長宗我部家に召し抱えられ、

長宗我部盛親に近江守に任ぜられた武将 大藪紀伊守祐宗。

 

さらに祐宗の子 大藪祐茂は父と共に山内家に仕官している。

 

大川村の文化財に「大川村花取太刀踊」があり、慶長年間、この大藪紀伊守により始められ、

その子孫が代々伝承したものと言われている。

大藪紀伊守祐宗と同族で、本川村・大川村五党の伊東近江守祐晴

この大藪氏、上記の通り、大藪紀伊伊藤祐親流とある。(川部正武 氏「武将系譜辞典」より)

さらにはその通字も「祐」であることからも、

 

本川村・大川村五党の大藪氏と伊東氏は同族と考えて良いと思う。

 

さらに千町の伊東氏の家紋は「庵木瓜」で、これは伊豆の伊東氏を発祥としている。

ちなみに、隣の大保木の伊藤氏の家紋は「下り藤」で、伊勢の藤原にちなむ。

 

また、天正の陣で高峠・高尾方面に向かった援軍はこの伊東近江守祐晴の他に、

同じ、本川村・大川村五党の和田氏(高野義光)であったことからも、

伊予側で隣接する「桑瀬〜千町」に影響力を拡張できることからも、

本川村・大川村五党の伊東氏であった伊東近江守祐晴一党と高野義光を援軍として向かわせたと考えられる。

大薮紀伊守の先先代 伊藤祐則(小殿)の弟 祐吉(豊後)の子が祐晴か

大川村誌によると、

「祐則(小殿)の弟 祐吉(豊後)は、桑瀬(本川村)に移住した。桑瀬はもと山中氏の所領で、山中氏は桑瀬で一時繁栄を極めていたが、家業を怠り貧窮したため、祐吉はこれに乗じ土地を買収。桑瀬に進出、大半を所有するに至り、桑瀬伊藤氏の始祖となる。」

とある。

 

これは、大薮紀伊守の世代から逆算すると、1535年前後くらいかと想定する。

 

天正の陣の2年後に亡くなったとされる伊東近江守祐晴には子が多かったことから見ても、若くして亡くなった訳ではないと考えられ、桑瀬伊藤祐吉(豊後)の子であれば、1587年時点で50〜70歳くらいで、年齢想定も合う。

 

桑瀬越えで千町に入ったとされる伊東近江守祐晴。

桑瀬伊藤氏の一族であったと考えることは自然なことと考察するのである。

片岡光綱の片岡氏とも関係を結んだ大藪氏

同じく土佐からの援軍として金子城で戦死した片岡光綱。

 

その光綱の弟 片岡直季から6代後の片岡祐光は「土佐郡本川郷大藪村住人大藪紀伊守祐宗の孫にして伊賀左馬允の男」で、「土佐藩主、祐光に命じて片岡氏の養子となさしめ遺跡を治めせしむ。延宝8年(1680)3月8日卒。祐光の子孫世世、庄屋職を相続す。」とある。

 

片岡氏も、大藪氏も、一時 本山氏の家臣であった。

 

これらのことからも、天正の陣への土佐の援軍の各将には浅からぬ縁を感じるのである。

伊東近江守祐晴一党の千町開拓

天正の陣の後、伊東近江守祐晴一党は、大川村へ帰還せず、千町に土着した。

 

同じく大川村の高野義光は帰還したのに、なぜ、伊東近江守祐晴一党は帰還しなかったのか?

 

桑瀬伊藤氏が、桑瀬と隣接する千町に、領土を拡大したと考えられないだろうか。

 

伊東近江守祐晴には子も多く、

天正の陣の2年後、天正15年に亡くなったとされる祐晴の跡を継いだ2代目の七之丞祐晴は「風透・山土居(藤之石)」に入り、四男の平馬祐光は「荒川山」に入ったとされる。

さらにその子孫は「吉居」や「御代地」に居し、それぞれに開拓を行ったとのことである。

 

これらはまさに、桑瀬と千町の間の土地の開拓であり、この仮説を考察するに至るのである。

伊東近江守祐晴に与えられた高峠援軍の使命

当ホームページのTOPにて考察している【土佐からの援軍兵力考察】

また、同【石川虎竹】頁で考察している土佐への逃避行、

さらには、同【金子元宅の思い】頁での考察を踏まえ、

 

伊東近江守祐晴に与えられた高峠援軍の使命は、

『石川虎竹一行の土佐への逃避行を援けること』

であったと独自考察するところである。

 

併せて、伊東祐晴自身のモチベーションとしては、

桑瀬と隣接する千町の地を新たに領有することであったのではないだろうか。

 

であるからして、戦後も土佐へ引き揚げることなく、

千町周辺を開拓し、土着したのであると考察する。