黒川通博

黒川山城守通博

その名が書かれた一次史料は、

『高野山上蔵院文書』

であり、同文書には養父で先代の黒川通堯が「黒川民部少輔通堯」とある。

 

また、通博の子(養子か)「黒川通貫(五右衛門)」の名は、同文書には見られない。

 

この一次史料から、『金子文書』の「黒山」は、「黒川山城守通博」であろうことが比考でき得る。

 

なお、『上蔵院文書』の黒川通博の文書にて、年が明確なのは「天正二年」のみであることから、

上記『金子文書』で「黒山の儀」が初登場する「天正十一年」(独自考察)時点で同一人物であるという一次史料は見つけられていない。

河野家(湯築一党)への足掛かりとして長宗我部元親から調略対象となった黒川山城守

天正の陣(四国征伐)時点で、長宗我部元親による四国統一は成されていなかった

『金子文書』に「黒山」は4回登場する。

(7)の天正十一年(独自考察)正月17日から、(18)の天正十二年12月14日までである。

 

その最初には長宗我部元親から「黒山」を調略(調儀)することが金子元宅に伝えられ、

天正の陣の直前、その最後には、長宗我部元親による“宇和表”侵攻や、藝州依りの湯築一党として談合する「黒山」各のことが書かれており、

その5ヶ月弱後には四国征伐が始まっている。

 

この『金子文書』の記述からも、天正の陣(四国征伐)時点で、長宗我部元親による四国統一は成されいなかったことが判るのである。

金子元宅と隣接し、河野氏一族「正岡氏」の出である黒川通博は、調略対象として最適

黒川家に関する二次史料で、比較的信頼性の高いものとして、黒川通博の孫である、

「南明禅師」伝来の史料がある。

 

それによると「南明禅師」の父は幸門城主 正岡盛元、母「桃女」は黒川通博の娘であり、

その黒川通博は、正岡家からの養子であり、その室(南明の祖母)は河野通直(弾正少弼)の娘(のちに妙寿尼という)であるという。

このように、南明禅師から見て父方の「正岡家」と母方の「黒川家」、そしてそれぞれが「河野家」の血を引くものであり、三家は縁戚関係にあったのである。

 

このような深い関係であったことと、黒川通博の領分が金子元宅のそれと隣接していたことから、長宗我部元親が黒川通博を、河野家への足掛かりとしての調略対象としたことは、ごく自然な流れであると考察できる。

“黒山之儀”とは

「金子文書」に度々登場する“黒山之儀”とは何か。

当ホームページ「金子元宅」項の内、「金子家文書」の各頁、(7)に初登場し、(20)の壬生川行元の知行分、北條之儀に触れたところまでで独自考察をしている通り、

 

[1]長宗我部元親による河野氏との東予における“境目”の「黒山」の調略

[2]金子元宅と「黒山」との調停

[3]金子元宅による壬生川行元知行分であった北条の地領有、“周敷家”の後ろ盾となること

 

が絡み合った懸案として、数年間に渡り、3者でのやり取りを行なっていたものと独自考察するところである。

黒川“美濃守”通博とする表記は後世の誤謬

黒川通博の名がある一次史料は前述の通り『高野山上蔵院文書』である。

そして、「黒山」=「黒川山城守」の名が見える一次史料は前述の通り『金子文書』である。

 

では、より、その記述が多く見られる「黒川“美濃守”通博」とは、何を元にしているのであろうか。

それは主に、『河野分限録』であると思われ、さらには『甲賀八幡神社祈願誓約書』にもその記述がある。

しかしながら、これら2書ともに、一見、一次史料のように見えるものの、

その実は、後世に書かれた二次史料であろうと思われる。

『河野分限録』

伊予史談会編『豫章記・水里玄義』に収録されている『河野分限録』の説明として、

「本書は河野人数巻ともいい、筆者は不明である。」(p.214)

「本書の底本としたのは、前記の通義本ー下浮穴郡野田村の得能通義ーであって、通貫本で校合した。本書を通じて考えられるのは、河野家臣団の構成と彼らの活躍した地盤を知る上には、他に類書がないので、重要な参考資料であることである。しかし、その反面において注意しなければならないのは、ここに掲載された人名が必ずしも同時代のものではないこと、すなわち時代に錯乱のあること、(以下略)」(p.215)

と書かれている通り、これは要するに二次史料であるということなのである。

 

※得能通義 1885年生 著書に「四国名所誌 : 古蹟遊覧」

『甲賀八幡神社祈願誓約書』

「小松町誌」(p.237)に写真が掲載されているこの誓約書。

元亀3年9月の阿波三好氏との合戦に際し、戦勝を願って河野通吉以下、河野氏麾下の諸将が連署、奉納したとされ、西条市文化財にも登録されているようですが、

ここに、享禄3年には河野家を離反し、その後自刃したとも言われる「重見因幡守通種」の名が明記されているのである。この三好氏との合戦には、家督を継いだ弟の「重見通次」が従軍したとも言われているようであるから、この『誓約書』が後世に創作された書であると考えて良いと考察できる。まさか、本人が花押まで書いているのに自分の名前を間違えて誓約書に連署するはずがあるまい。

これらの他にも、当ホームページ内「天正の陣 伝」にも取り上げている『予陽河野家譜』にも「黒河美濃守」とあるが、そもそもこの『予陽河野家譜』自体の信憑性が低い。なお、『小松邑誌』(1860年)なども『予陽河野家譜』からの引用で「黒河美濃守」としている。

黒川美濃守通博と書かれた一次史料は無い

以上のことから、「黒川美濃守通博」とされている書は基本、その全てが一次史料を元にしたものではなく、後の世に創作された物語であると私は見る。