黒川広隆

丸山城主 黒川広隆とは誰か

伊予黒川氏

伊予黒川氏(→ウィキペディア リンク)

 

【剣山城 黒川家】

初代;黒川家十四代総領(初代周布郡旗頭)黒川元春通尭

→土佐 長宗我部兼序の三男で、国親(元親の父)の弟。国親と不仲となり、

 伊予周敷郡 黒川家十三代 黒川通矩を頼り出奔。通矩(通冬の子?)の妹婿となり黒川性を名乗る。

 

二代;黒川通博

→先代 黒川元春(通尭)の男子 通長 通俊が相次いで戦死し、

 幸門城 正岡右近大夫通純(=経澄か)の次男 通博が養子に入る。

 河野通晴(=弾正少弼 通直に改名か)の従弟であり、通晴の女を室に迎え、河野十八将の一人に列せられた。

 

三代;黒川通貫

→先代 黒川通博には男子が生まれず、天正十二年に卒。

 千足(周敷郡)の家譜によると、急遽湯築屋形よりの命で、初代 通尭室の弟(黒川通冬の子)が旗頭を継いだ。

 また、先代 黒川通博の女一人は、黒川通広(丸山城主)の室ともある。

黒川通貫=黒川通広=黒川広隆=黒川五右衛門

管理人による考察は、黒川通貫が広隆に改名したというものである。

 

【黒川広隆が黒川通貫である理由】

1)先代 黒川通博亡き後(急死か)、急遽旗頭を継がせるには、通博の娘婿として迎えることは自然である。

 

2)その娘婿 通広は丸山城主とあり、通博死去の翌年が天正の陣であるから、時系列としても自然である。

 

3)その丸山城は、高尾城防衛の要であり、侍大将級の、家名のある将に任せるのは自然である。

 

4)その諱「広隆」には、黒川家、正岡家、河野家の通字が一文字もない。

→では「広隆」とは?

小早川への降伏の際、臣従の証として、小早川家の偏諱「隆」の字を贈与され、黒川家の通字「通」の字を捨てさせられたのであると考える。(※真田信幸→信之、また、立花宗茂の改名など不思議なことではない)

 

5)「黒川広隆」の名が明記されているのは毛利家の資料であり、新居・宇摩または西条の資料にはほぼみられない。

→『陰徳太平記』(1695年頃完成)、『吉田物語附尾下巻』(杉岡就房 著)

また、『愛媛県史 近世 上』(1986刊行年)には、黒川通貫が河野通直麾下の将として、小早川軍の九州征伐に天正十四年九月八日に、桑村郡より出陣した旨が記載されている。

なお、『澄水記』には黒川の名も、丸山城の名も出てこない。

 

寄せ手である毛利側にとっては丸山城 黒川の調略成功は、重要なポイントであるのに対し、郷土の文献としては、裏切り者の名を記すことや、敗戦のターニングポイントである丸山城開城といった不都合な事実を記したくないのは当然と思われる。

 

6)周布郡の戸田は黒川広隆とともに降伏し、小早川軍を高尾城後方に先導している。

 

※諱は、明河 赤滝城 黒川家の時に通貫→周敷郡旗頭を継ぐ時に通広→丸山城降伏時に広隆→終戦後に通貫に戻したか。五右衛門は通称。