花房親兵衛

金子城 馬淵口にて毛利秀包の兵に討ち取られた土佐からの援軍、長宗我部元親家臣 花房親兵衛とはだれか。

 

管理人も様々な文献でその名を探したが、天正の陣での討ち死にの記述しかなく、

その出自については現時点(2018.1)においても不明である。

 

どなたか、その出自、また、天正の陣以前の動向をご存知の方がおられたら、

是非ともお教え頂きたく思っております。

独自仮説(1)美作国 花房氏の一族か?

根拠や繋がりを示す文献は見つかっていない。

 

ただ、その仮名が、花房十郎兵衛職勝ー花房加兵衛職澄/助兵衛職之(職秀)など、

花房親兵衛が同じく「兵衛」を名乗っていることだけが共通点である。

独自仮説(2)阿波国 英城に関係する将か?

こちらも根拠や繋がりを直接示す文献は見つかっていない。

 

仮説の要素としては、

長宗我部元親が、金子元宅に送った文書の中に、藝州の軍勢が渡海して来るようなことがあれば、

「〜親泰早々可被打出候、其内此方よりも一人は礑有仁可被申付候〜」(一部引用)とあるが、

実際に援軍として金子城に派遣されたのは片岡光綱と、この花房親兵衛であった。

 

まず先に、香宗我部親泰が自身の代わりに花房親兵衛を派遣したのだとすると阿波からと考えられ、

阿波で「花房」を名乗るとすれば、同じ読み方の「英」城からと考えられなくもない。

 

英城主の仁木氏もやはり不明な点が多いが、

・天文二十二年(1553)の鑓場の戦いで討ち死にした仁木高将の他に、

・天正七年(1579)の 岩倉城 三好康俊による長宗我部への寝返りの際、矢野国村を打ち取った仁木日向守の名が見える。(『矢野氏覚書』より)

これらから、英城の仁木氏は断絶せず、長宗我部に従っていることが読み取れるのである。

 

この英(花房)城に連なる武将が、香宗我部親泰に命じられ、「花房親兵衛」と名乗り、金子城に向かったと仮説するところである。

滝ノ宮口砦を守備し、馬淵口で討たれたのはなぜか

滝ノ宮口砦ならびに滝ノ宮口は、いわば城の後方である。実際に寄せ手は北谷口方面から攻め寄せている。

 

そして花房親兵衛は土佐からの援軍であり、金子元宅と長曾我部元親の約束である子息らを土佐へ逃すという下知を受けていたと考えても不思議はないのではないか。

伊藤嘉右衛門家定しかり、高尾城方面に派遣された土佐の将たちもしかりである。

 

金子城を俯瞰ならびに実際に足を運んで考察したところ、私の独自考察ではあるが、

「滝ノ宮口砦」=「金子カネ姫の避難場所」ではなかったか。

 

非戦闘員が本郭にいては、激戦の足手まといであり、落城を想定していたとしたら本郭は逃げ遅れる可能性が高い場所である。

 

そこで、滝ノ宮口砦に、武官(護衛)としての花房親兵衛、文官(土佐までの道案内)としての伊藤嘉右衛門家定をおき、カネ姫とその周辺の女たちを保護していたのではないか。

 

そしていよいよ落城が目前に迫り、さらには退路である後方に小早川秀包の隊が向かっているとの報を受け、急ぎ、花房親兵衛は馬淵口へ下り敵を引きつけておいた上で、カネ姫土佐への退路をあらかじめ想定して、大谷(現在の新居浜市大生院高山周辺)に居する「守谷氏」を招いておき、山中の道案内をさせ、伊藤嘉右衛門家定とカネ姫たちは、衣笠山を経て大谷へ向かったのではないだろうか。

 

花房親兵衛が馬淵で討たれたのは、カネ姫を逃れさせるための殿(しんがり)としてではなかったかと考察するのである。

上の考察にさらに私の独自考察を、花房親兵衛の名のもう一つの記述【花房新兵衛】として別頁にて紹介したい。

 

→【花房新兵衛】独自考察へ