金子家文書〜中国国分と秀吉包囲網 小牧・長久手の戦い〜

金子家文書において、最も多くの文書が残っているのがこの期間である。

 

この期間は、長宗我部元親に取っても秀吉包囲網を背景に、自身の野望を成就できるかどうか最重要な時期であり、その一つの事象として金子元宅とのやり取りも一気に増えているのであると考察できる。

 

【中国国分】天正11年8月、毛利氏は小早川元総ならびに吉川経言を秀吉へ人質として送り受諾した。

 

【小牧・長久手の戦い】天正12年3月〜11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた。

(8)長宗我部元親【御返報】天正12年(1584年)正月15日

雖無指題目候無音之至如何と被(与)令存、用飛脚候、彌無風聞候哉

一 其許御催事定而不可有御油断候、従上國も阿讃手立之儀、藝州邊迄相催之由候、是非之變動今度可相見候歟、以内に(々)彌御覚悟肝要候

一 道後、道前、島表之儀、如何様子共候哉毎時可示給候

一 宇和表之儀其後は不及行御計略、子細共候、何之途可達存分候

一 舊冬至御庄畑表之人数相働、敵一城に責縮相守在之事候、落去不可有程候可被御心易候

一 従藝州者内々入魂、無別儀趣共候、當春も早速音問候、但世上之儀當時々々之事迄候歟、返々も其面之儀殊に貴所別而、御入魂賴存候、何篇任御心付可得其意候、猶期後音候 恐々謹言

正月十五日 長宮元親

金備 御返報

※()内は愛媛県史史料編の記述

(独自考察のポイント)

 

・この文書を【天正12年】とするのは、「従藝州者内々入魂、無別儀趣共候、當春も早速音問候」の一文が、石谷家文書 第2巻所収の小早川隆景書状(天正11年(1583) 5月22日)と合致するものと考察するものである。

※當春とは、正月(冬)の本書状から見た当春であり、前年の春=天正11年5月が当てはまる。

 

「雖無指題目候無音之至如何と被令存、用飛脚候」と、特にトピックもなくご無沙汰していますが、どうされていますか?と、また本文を見ても、天正11年中は比較的情勢が安定していたことが窺える。

 

「舊冬至御庄畑表之人数相働、敵一城に責縮相守在之事候、落去不可有程候可被御心易候」と、長宗我部軍の南予侵攻も、南予最南端と言って良い幡多郡の御荘氏を下したとのことで、やはりこの時点では比較的な情勢安定が見て取れる。

(独自考察)

 

嵐の前の静けさといったところであろう。

 

天正7年親信の戦死を受け、久武親直が伊予軍代に任命されるのも天正12年の秋であるし、天正11年の秀吉は、柴田勝家をはじめとした旧織田家反秀吉方と抗争中であり、また、大坂城築城も行っているため、藝土方面の情勢が安定していたことの要因でもあろう。

 

この間に、それまでに金子元宅を介して構築してきた藝土入魂へ向けた外交を背景に、長宗我部元親は直接、毛利氏の本拠地であった吉田に使者を送り、それを受け入れた輝元も長宗我部氏との安定した関係を望んでいたことが、先にもあげた石谷家文書より読み取れ、「但世上之儀當時々々之事迄候歟」と、予断を許さないという認識は持ちながらも【藝土入魂】が一時的にとはいえ成った時期であったと考察する。

(9)(10)久武彦七親直【起請文】天正12年(1584年)7月19日

(9)

起請文

一 連々對元親別而無二御馳走之上者拙夫深重可得御意事

一 御身上之儀自然無道之族某入魂候者則可申談事

一 御進退之儀自今以後随分可令馳走事

右之旨趣於爲者

上梵天帝釋四大天王日本國中大少之神祇八幡大別而氏神一宮大明神神罰冥罰可蒙罷者也

天正十二年七月十九日 久武彦七親直

金子備前守殿(ママ)

(10)

尚々任御内證飛脚於目前誓紙遣置候 以上

近日者不申達候其口前體如何哉、御心遣察存候、讃至東方、馬を被出候、静謐案中候貴所早速御出張候哉、仍先度岡豊(國真※は間違いか)方に拙夫へ、御神書被下候、既貴方之御事元親無二御馳走之上候併如何に候哉猶長久可得御意候 恐恐謹言

七月十九日 久武彦七

金子備前守殿(ママ) 人々御中

(独自考察のポイント)

 

「近日者不申達候其口前體如何哉」とあるのは、久武親直が新たに伊予軍代に任ぜられたことで、東予方面のキーマンである金子元宅に改めて連絡を取っていることが表現されていると読むことができる。

 

「讃至東方、馬を被出候、静謐案中候」とはまさに、小牧・長久手の戦いの一方面戦と言っても良い“第二次十河城の戦いが6月11日に終結していることを指すと比考できる。

(独自考察)

 

小牧・長久手の戦いの渦中となり、藝州毛利家(影響下である河野家※天正12年2〜6月にかけての毛利軍による風早郡・野間郡への渡海派兵、合戦は反河野通直一党の掃討戦であったか、直後に通直は藝州へ渡っている)は、秀吉(中国国分を行うも天正12年3月には宇喜多秀家に毛利氏警戒を命令※このことが前述の風早郡・野間郡の件が反通直一党=来島通総・徳居通幸に連なる者であると独自考察する根拠の一つである)・家康(秀吉包囲網の一角に長宗我部家)両陣営にとって、油断できない存在となっていたと考察できる。

 

このような情勢の中、長宗我部としては、久武親直を天正七年の兄、親信討死以来の伊予軍代に任じ、喜多郡へ再侵攻。河野氏(背景に毛利氏)へ南予より圧力をかけるとともに、東予からは金子元宅をもって備えつつも反面で河野氏との関係継続を進めるという、高度な戦略をもって臨んでいることが考察できるのである。

 

この状況下での、まさに長宗我部陣営の伊予担当の重要人物、久武親直と金子元宅が交わした起請文ということで、藝土関係、ひいては秀吉包囲網の緊張感が高まっていることの一つの現れであると言って良いと考察する。

(11)(12)長宮元親・瀧本寺榮音書状 天正12年(1584年)8月18日

(11)

近日以使者雖可申入候先づ宇筑届越候世邊之儀、風聞為可承合一書を以て令申候、各御分別之通又御一分之趣可示預候、於手前者、聊以て不可有御機遣候、方角之儀猶有御校量、慥に可蒙仰候、郡内表之儀一味中丈夫之覚悟に候、是又於様體者可御心安候、毎事任口上候條、閣筆候、追々又可申入候 恐々謹言

八月十八日 長宮元親

金備 御宿所

(12)

金備公 人中  瀧本寺榮音

尚々今度御飛脚御越被下□□□□□道(御)越之節□(の)方々よりの數通も(皆々)元親懇被遂披見候て則返申候、其元之様子追々可承候従此方も可申入候條數々通は懇々彼仁へ申渡候以上

先度有増申越候キ其後示給候題目數々得其意候元親懇々致分別候就は従藝人數近日差渡候由相聞候哉宇高筑幸に爰許御逗留之事候間、郡中爲内談可被差返候、不申及候へ共方角慥承度候

一 萬一其表人數渡候はは阿讃兩國の事をは〆其表手宛にて候、當國之事は惣國元親…(※…なし)を初、小田表三間口郡内表迄可被打出覚悟…(※…なし)にて候其趣は筑へ懇申渡候

一 御代島之事如何可有之候哉、彼島をば、従此方取拵候て被持候事は可然存候へ共、此前神書を以被申談始末共候、彼方人數色立共不見合内に拵候へば如何候、其當分差渡被構候様に、兼々御内談専一候此段も彼仁に申渡候

一 黒山方の事は返々御存分外は無之候、然共此前之始末を相守迄候其内に徳蔵寺被越候由候一通承合自是近日に一人被申付候覚悟候、其内彼内輪之御調も可然候此方存通は従藝人數渡候事をば不本に存候、萬一諸口へ渡候共其段は御方の義は此方毛頭疎意有間敷候筑州に申渡候

一 爰許人數以來廿六日七日之間に皆々被打出候、其表様子御内談肝要に候

一 證人衆之事一切之御事候間、猶々御馳走奉資候、藝道後への覺にて候、兎角に其表之事は近日に可相澄候、其内之御心遣迄候

一 貴邊爰許御越之段は、是非御用捨可被成候、其表相澄上にては可然候、境内事候間申迄候、其内證人之事は堅く被仰付候

一 方角へ御聞合も此節にて候、萬々御l心遣肝要候、必々急度仁體一人可被差越候、追々可申談候、其表人數渡候ば親泰早々可被打出候、其内此方よりも一人は礑有仁可被申付候、藝道後羽柴一味にて候共、一戦の事は可御心易候、十川は千石渡して結句は城落去由候、従藝人數渡候はは、又可得利運候、此方少も無油断心遣被申渡候間、萬々可御心易候

一 通直歸國之節又は人數之彼方被打立候節萬々御心付奉待候、猶追々可得御意候 恐々謹言

八月十八日 瀧本寺榮音

金備公 御宿所

(独自考察のポイント)

 

当時の周辺情勢が独自考察の背景として重要である。

1.毛利家は未だ完全に秀吉の服属大名になりきっていない。

2.秀吉包囲網もこの時点では瓦解していない。家康や信雄より元親に所領を約束する書状も送られている。

3.毛利家はこの時点でなお河野通直の後ろ盾である。

4.来島通総は秀吉の傘下となり歓迎されていたが、河野家の後ろ盾としての毛利家には容認されていない。

5.毛利家が河野通直を援けて2月〜6月の間(来島の影響を色濃く残す)風早郡・野間郡へ派兵、掃討している。

 

これらの情勢から、この(天正12年8月18日)時点では、

【毛利・河野】【羽柴・来島】【長宗我部・徳川、織田】各勢力が敵対または不信の状態にあったと考えられるのである。

(独自考察)

 

(11)の元親から元宅への書状では、

「御一分之趣可示預候、於手前者、聊以て不可有御機遣候、方角之儀猶有御校量、慥に可蒙仰候」と、元宅の進路を元親が後押しするような一文に加え、

「郡内表之儀一味中丈夫之覚悟に候、是又於様體者可御心安候」と、喜多郡の件はこちらに任せて安心して臨めというニュアンスの一文が続いている。

なお、ここで初登場するのが金子元宅の使者としての【宇高筑前守】である。この表記から見て、使僧ではなく元宅麾下の武士であることが読み取れる。

(12)は(11)の元親書状に重ねて、瀧本寺榮音が詳細を返信するために書いたことが読み取れる。

以下に各項の独自考察を行う。

 

「一 萬一其表人數渡候はは阿讃兩國の事をは〆其表手宛にて候、當國之事は惣國元親…を初、小田表三間口郡内表迄可被打出覚悟…にて候其趣は筑へ懇申渡候」この度の戦略を表明するものである。毛利軍が先の風早郡、野間郡に続き、さらに道前へ渡海派兵してくれば、阿波・讃岐方面に展開させている長宗我部軍から援軍を送る。さらには元親をはじめ土佐の軍勢を挙げて、上浮穴郡・北宇和郡・喜多郡方面まで攻め込む(湯築に肉薄する)覚悟であることを宇高筑前守にしっかりと伝えたと強く表明している。

 

「一 御代島之事如何可有之候哉、彼島をば、従此方取拵候て被持候事は可然存候へ共、此前神書を以被申談始末共候、彼方人數色立共不見合内に拵候へば如何候、其當分差渡被構候様に、兼々御内談専一候此段も彼仁に申渡候」【御代島城】の(新規?)建造もしくは防備拡張強化について言及されている。元宅→土佐への書状が無いため此前神書を以被申談始末は不明だが、「彼方人數色立共不見合内に拵候へば如何候」とあることから、第三者が御代島城工事に関わっているようであり、これを飛躍して独自考察すると、次項「黒山方の事」の文中にも「此前之始末」とあることから、黒川山城守の関わりを想像するものである。

 

「一 黒山方の事は返々御存分外は無之候、然共此前之始末を相守迄候其内に徳蔵寺被越候由候一通承合自是近日に一人被申付候覚悟候、其内彼内輪之御調も可然候此方存通は従藝人數渡候事をば不本に存候、萬一諸口へ渡候共其段は御方の義は此方毛頭疎意有間敷候筑州に申渡候」この項は重要な一文であると考察する。「黒山方」との案件は、先の(7)天正十一年正月十七日書状から継続しているようであり、元親は元宅を支持し見守っている上、近日中に【徳蔵寺】(※初登場)が来るようなので、土佐側からも一人申し付けられることを承知していると言っており、【a.湯築一党の黒川山城守】【b.黒川と隣接する金子元宅(道前方面へ野心)】【c.藝土入魂を保つ道を探る長宗我部】のa.b.c.三者によるやり取りが生じているようである。

またここでも上記最初の項にある毛利軍渡海に対する戦略を繰り返して記していることからの独自考察であるが、ここまでの3つの項は繋がっており、この時点である程度、a.b.c.三者は協力関係を築いていたのではないかと考え得る。黒山方」御代島之事」従此方取拵候て被持候」させながらも、彼方人數色立」「其内彼内輪之御調も可然候」として、湯築一党として黒山方」が離反する懸念も十分あり、ひいてはそのことが、藝人數渡」に繋がる懸念を表していると読み取れるのである。

 

「一 證人衆之事一切之御事候間、猶々御馳走奉資候、藝道後への覺にて候、兎角に其表之事は近日に可相澄候、其内之御心遣迄候」ここで出てきた證人衆」とは誰々か?藝道後への覺」と記されているところから、二次史料ながら『土佐物語』(※四四五頁/237コマ参照)に河野氏が「家老平岡人質として岡豊にぞ相詰めける」とある裏付けになるか、元宅への書状に書かれていることから、平岡からの養子である黒川山城守が金子元宅を通し、長宗我部へ證人としたと考察することもできる。

なお、兎角に其表之事は近日に可相澄候、其内之御心遣迄候」「其表」とは前述の藝道後」だとすると、次々項にある「藝道後後羽柴一味にて候共〜」に繋がると読み取れる。

 

「一 貴邊爰許御越之段は、是非御用捨可被成候、其表相澄上にては可然候、境内事候間申迄候、其内證人之事は堅く被仰付候」「其表」相澄」まない限り、元宅自信が土佐へ来ることは控えるように要請しており、「其表」の緊迫した状況の度合いが伝わる一文である。また、其内證人之事は堅く被仰付候」とあり、元宅にも證人」を求めていることから見ても重ねて緊迫状況が伝わるのである。

 

「一 方角へ御聞合も此節にて候、萬々御l心遣肝要候、必々急度仁體一人可被差越候、追々可申談候、其表人數渡候ば親泰早々可被打出候、其内此方よりも一人は礑有仁可被申付候、藝道後後羽柴一味にて候共、一戦の事は可御心易候、十川は千石渡して結句は城落去由候、従藝人數渡候はは、又可得利運候、此方少も無油断心遣被申渡候間、萬々可御心易候」前述の「藝道後」動向の照会に対する念押しと、急ぎ身柄を一人差し越すようにと要請するとともに、交換条件とも取れる“香宗我部親泰からの援軍(※親泰援軍を天正の陣への援軍申し出であるという見解があるが、そうではなく、河野援軍としての毛利軍渡海派兵への援軍申し出であり、その性質は大きく異なるものである)の約束を申し出ている。

さらに、藝州と道後が羽柴の一味であっても、先の第二次十河城攻めを引き合いに出し、恐るるに足らずと元宅を勇気づけてもいる。

 

「一 通直歸國之節又は人數之彼方被打立候節萬々御心付奉待候、猶追々可得御意候」先の風早郡、野間郡での戦の後、藝州に渡っていた河野通直がこの後、8月23日に帰国するのであるが、この情報や、毛利軍渡海の情報が入ればすぐに共有するように伝えており、ここでも事態の緊迫感が高いことが読み取れるものである。

(13)瀧本寺榮音【御返報】天正12年(1584年)9月1日

廿七日の御状今日到来一々令披見候

一 通直御歸國に付而得趣早々被仰越候條々得其意候、一爲山見生口被差渡由、最前之風説とは相違候、如案候、存外無人にも相聞候いかがの儀候哉、來月中に人數被差渡由必定候歟、追々被聞合可有御注進候

一 三間表之事、久彦七、堺目立毛爲警固被申付候、彼口之儀は不可有異儀候間可御心安候

一 道後藝州へ御人遣由候條、實正被聞召居、頓而可被仰越候

一 元親出陣之儀は彼表依見合可有出馬候、相替儀候はは自是可申候

一 黒山懇望之段、其外儀委先書申盡候間、不能多筆候

一 内々承筋目、随分可申給候其段可御心易候、何篇被覃聞召通り無御隔心御入魂肝要存候、但不及申候 恐恐謹言

尚々切々御飛脚被差越御入魂之段さてさて奇特先萬之由被入咸候、能々拙僧相心得可申入旨候無休期御心遣共候

九月一日 瀧本寺榮音

金備 御返報

(独自考察のポイント)

 

「廿七日の御状今日到来」に対する返報である。以下最初の項を見ても明らかなように、8月27日の金子元宅から長宗我部元親にもたらされた情報は、8月23日の河野通直の藝州より帰国の報である。

→ここから読み解けるのは、当地での書簡伝達速度である。

《道後・湯築》→《新居郡・金子》に4日間《新居郡・金子》→《土佐・岡豊》に3日間(※旧暦天正12年は29日迄)かかっている。

 

・最初の項の後半に金子経由でもたらされた藝豫動向情報に対し、土佐側が得ている最新情報とは異なる旨が記されている。「一爲山見生口被差渡由」の“山”とはたくさんの寄り集まり=藝州からの(見生口=御荘口への)援軍のことか。「存外無人にも相聞候」と続き、毛利家に河野家へ援軍を送れる余裕が無いような情報が土佐に入っているようである。ただ、「來月中に人數被差渡由必定候歟」と、来月にはその余裕の無さが解消され、渡海してくるのではないかとも警戒しており、引き続き、元宅に情報収集と共有を依頼している。

 

・2番目の項では、久武親信が三間方面を押さえていることが記され、元宅に安心するように促している。

 

・3、4番目の項は最初の項と併せて、藝豫連合軍の動向次第で、元親自らが出陣する計画であることが伝えられ、よって元宅に重ねて情報収集と共有の依頼を伝えている。

 

・5番目の項には「黒山懇望之段」とある。黒川山城守からも金子元宅を通して懇願している事があり、「其外儀委先書申盡候間、不能多筆候」とは、上記(12)第3項の宇高筑前守に申し渡した内容を指すか。

 

・最後の項と追伸からは、長宗我部元親が、金子元宅を頼りにしている気持ち、反面では東予が藝豫陣営に転じないように気遣いを行っているようにも読み解ける。

(独自考察)

 

秀吉包囲網、小牧・長久手の戦いに関連する各所の緊張、そしてそれを背景とした、藝土関係にさらなる緊張感が高まっていることが現出していると言ってよい。

 

 (7)で天正11年正月と独自考察した書状で初登場した“黒山”が元親へ何かを“懇望”しているのである。(7)の時点では元親は元宅に対し、黒山と“入眼”するよう促していたことを考えれば、この1年9ヶ月で元親は、元宅に対し、湯築一党であり領地が隣接する黒山とを交流させ、長宗我部へ懇願させるほどに“調略”することに成功したと言ってよいのではないかと独自考察する。

さらには、上記(12)第5項の“證人衆”に関する独自考察にも関連してくるか。

反対に言えば、湯築一党の最東部で新居郡に隣接する周布郡の黒川氏が、天正の陣に於いて金子元宅が指揮する高尾城の戦いに加わったことは、その関係性がある程度出来てから一年も経たない短期間での参戦であったと言ってよく、二次史料によるところながら、黒川広隆が小早川に調略され、丸山城を開城した背景に繋がるのではないだろうか。

 

ちなみに、「黒山懇望」を飛躍考察すると、天正12年に死去したとされる黒川山城守通博が、その死期を覚って、自ら亡き後の黒川家の安泰を図る“懇望”であった可能性もないだろうか。

(14)長宮元親【御返報】天正12年(1584年)9月3日

就藝州催之儀不被打置切々預御注進候(之)段、誠難述筆詞儀共候、彼行之儀縦不事實候共覚悟之前候間、於手前更に無動轉儀候條彌實儀被聞合毎事可示預候先各任御心付境目人数打立候、如御書中定而事新儀不可有と(之)存候、何も替子細共候はは追々可承候、次に御證人替被差越彌御入魂之驗本望の至候(、委細其躰瀧本寺可被申入候、猶自是可令申候、) 恐々謹言

尚々平十郎殿久々御逗留候處何等之馳走無之失意底存候、先差歸候條(追々)自是可令申候

九月三日(天正十二年)長宮元親

金備 御返報

(※()内は愛媛県史史料編による)

(独自考察のポイント)

 

・この返報も(13)同様、元宅からもたらされた河野通直帰国の報に対する返信である。

(13)の独自考察でも述べたのと同じく、元親本人からの本書状(瀧本寺の2日後に書かれているのは、瀧本寺が奏者として元親に伝えるまでに不在等で時間がかかったか?)からもさらに、元親が金子元宅を頼りにしていることが明確に読み取れる。

 

・ここで重要なポイントは文章後半「御證人替被差越彌御入魂之驗本望の至候」である。

先ず、(12)第5項では證人に“御“が付いていないが、ここでは付いている。また、(12)では“衆”と複数形なのに対し、こちらではそれが無い。このことから、(12)と(14)では異なる“證人”の話が述べられていると独自考察する。しかしその時期については同時期に證人として“差し越された”ものである。

 

・追伸にある「平十郎殿」とは誰のことか?「久々御逗留」とあるため、直近の8月18日の書状に名が記されている宇高筑前守ではないであろう。さらに言えば、元親のこの一文からは元宅に対するのと同様の気遣い気持ちが表れている。金子元宅の一族か?

(独自考察)

 

「御證人替被差越彌御入魂之驗本望の至候」とは、上記ポイントの通り、“御”が付いており、人質に“御”を付けるということから、金子元宅からの直接の證人であると考察できる。

このことから、金子宅明(専太郎)が土佐へ人質交換で行ったのは(天正七年ではなく)天正十二年ということになる。これもまた、藝土入魂が危うくなった緊迫感を示す事例であるとも考察でき、合点がいくので有る。

 

さらに独自考察すれば、(12)で言われている證人とは、上記の通り黒川山城守を通じてもたらされた湯築一党からの人質に加え、高峠石川氏の石川勝重、その他、松木三河守安村からの人質など、二次史料で語られる“新居・宇摩郡から土佐へ送られた人質”はこの時(天正12年の8月〜9月)に送られたものであり、その背景には、秀吉包囲網瓦解懸念、藝土入魂の解消による毛利軍による渡海侵攻への重大なる危機感の現出であると独自考察するところである。

(15)長宮元親書状 天正12年(1584年)9月15日

今度至三間表少々人数申付候、深田之城責詰は十一日に令落去、在々所々立毛等苅掃、無所殘発向勝利由注進候、次に従道後郡内表へ可働由、傳説之旨申來候、其邊如何相聞へ候哉、自然於相動者、此度無御油断道後口へ被取発尤候、何も道後へ催候はは、可示給不可令油断候、藝邊事、此比如何風聞候哉、上邊の儀、東國彌勝手之ヨシ候近日三介殿家康より御使者候て深重に入魂候旨御懇状共候佐々内蔵介、加賀、越中、能登、其外一味之旁差競せ、厳重相聞候、其邊何等之説共候哉、方角能々被聞合、無御退屈示給候、誠無盡期、毎々被添御心儀難申述候、猶萬般期後音候 恐恐謹言

九月十五日 長宮元親

金備 御宿所

(独自考察のポイント)

 

・冒頭記述の通り、三間方面の深田の城を天正12年9月11日に落とした旨が伝えられている。それに応じて、湯築河野軍が、喜多郡方面へ進軍すると伝わってきているが、何か聞いているかと元親から元宅へ確認が入っている。そして万が一、河野軍が発出した場合には、長宗我部南予侵攻に呼応し、元宅も道後口へ出陣するように要請しているのである。

 

・続けて、元宅を安心させるかとごとく、秀吉包囲網が「東國彌勝手之ヨシ候」と優勢であり、「近日三介殿家康より御使者候て深重に入魂候旨御懇状共候」として、織田信雄、徳川家康から、元親に対して深重入魂であること、さらには「佐々内蔵介、加賀、越中、能登、其外一味之旁差競せ、厳重相聞候」として、北陸方面の戦況にも隙がない旨を丁寧に元宅へ情報共有しており、その前段に「藝邊事、此比如何風聞候哉」と聞いていることから、元親から元宅へ、何も心配することなく、藝豫情勢に集中して取り組んで欲しいという意図が読み取れる。

(独自考察)

 

小牧・長久手の戦いは、6月中には秀吉と家康の直接対決は終わっており、ここで取り上げられている佐々成政の末森城の戦いも9月11日には敗北しており、織田信雄が単独で秀吉と講和する11月まで残り2ヶ月という、いわば秀吉包囲網は終局を迎えようとしていた時期である。

戦術的、局地戦では家康に分があっても、大局的、戦略的には秀吉に分があったと言える情勢を背景に、藝土入魂はいよいよ終わりを迎えようとしていたのがまさにこの時期である。

 

長宗我部元親としては、上方で秀吉の影響力が強まれば、当然、毛利家は早晩、完全な秀吉麾下の服属大名となることは明白であり、そうなれば(そうなるのであるが…)、信雄・家康陣営であった長宗我部は征討される立場となり、近畿と中国の両面から四国に攻め込まれるであろうことは、この時点で容易に想定できることであるため、ますます金子元宅の立ち位置が重要度を増す、緊迫した状況となっていることが考察できる。