一次史料から見る金子元宅

金子家文書を中心に、ここでは金子元宅に関する一次史料から、年代時系列は金子家文書の各独自比考も交え、簡単にまとめてみたい。

金子元宅 年譜(一次史料)

※各項目の参考文書は、金子家文書の各頁を参照。

年月日 項目
天正九年(1581年)7月23日 長宗我部元親と起請文を交わし、同盟関係が正式に成立。
天正十年(1582年)12月19日 小早川隆景に鷂を贈り外交。隆景より豫土間を取り持つよう依頼される。
天正十年(1582年)12月20日 香川親和へ入城祝いの返報を受ける。香川信景等から藝羽入眼への懸念と、藝土入魂の重要性、そして元親が元宅を対藝豫戦略上、頼りにしている旨が伝えられる。
天正十一年(1583年)正月17日 元親より「藝州之状」共有への礼と、藝豫動向への懸念、さらに元宅と「黒山」との変らぬ入眼への要請と元宅への理解が示される。
天正十二年(1584年)正月15日 元親より秀吉による阿波・讃岐策略への懸念、藝豫ならびに瀬戸内情勢共有要請、南予戦線の順調が伝えられ、藝土入魂を保つ上で元宅を頼りにしている旨が伝えられる。
天正十二年(1584年)7月19日 久武親直と起請文を交わし、金子元宅がこれまでよりさらに、長宗我部麾下に近い立ち位置で、対道後軍事同盟締結と言える体制へ。
天正十二年(1584年)8月18日 元親より使僧を通じ「藝道後羽柴一味」の認識が伝えられ、(「黒山」方の件と繋げて※徳蔵寺が黒山方の使僧か)藝州による道後援軍、渡海への懸念、その場合、阿讃の兵を豫州戦線に回し、香宗我部親泰が打ち出す旨と、それに関連した御代島普請協力、黒山方の事に対する後押し、證人衆の件が伝えられ、引田の戦いの勝利、喜多郡戦線への覚悟を伝え、河野通直の藝州よりの帰国情報や毛利軍の動向共有を依頼。
天正十二年(1584年)9月1日/3日 8月23日藝州より河野通直帰国の報を、元宅より土州へ8月27日の書状でもたらしたことへの返報が届く。藝州からの南予方面への援軍という噂もあるようだが、情報の錯綜がおきている。豫州方面の高まる緊張に対し、元親自らの出陣も検討され、元宅からは“御證人替”が行われ、ますます元親から元宅に対する信頼が高まっている。またここにきて「黒山」が“懇望”してきている。
天正十二年(1584年)9月15日

三間方面、深田の城を9月11日に落としたことで、道後からは喜多郡方面への派兵情報も出ている。これに対し、元親から元宅へ、戦端が開いた場合の挟撃を依頼。元親は、道後を支援する藝州の動向を確認しながらも、織田信雄、徳川家康から、秀吉包囲網の優勢が伝えられ、元宅へは引き続きの情報共有を依頼される。

天正十二年(1584年)11月4日

元親から元宅へ、戦勝による新たな土地の領有権取り決めについての件と併せ、元親、信親連署の形で、元宅子息に対する後ろ盾を約し、周敷家とその郡中におけるどのようなことでも元宅を支持する旨が表明される。

天正十二年(1584年)12月14日

瀧本寺と中與一兵重治より、徳蔵寺(黒山方か)側への不信が残るものの、證人の件を内々に手筈と、関連して久武親直が決めた事への追認が伝えられ、藝州動向の確認と、それに関連付けて黒山等による湯築談合は想定内であり、南予戦線は優勢である旨が伝えられる。さらに、道前方面における元宅への後ろ盾であり、なんでも相談に乗ると伝え、引き続き道後方面の情報共有を依頼している。

天正十二年(1584年)12月14日

豫土国境、土佐街道の要衝である桑瀬をはじめとした峠の有力者が、金子元宅に味方し、元宅の知らぬ者を匿わないことを約す。

天正十三年(1585年)5月26日

長宗我部元親と金子元宅は連署覚状を取り交わし、元宅は金子家として元親に対し“無二之覚悟”を約し、道前方面の知行について元親の御意を得ることを表明するとともに、元宅の息子等の後ろ盾となることを明確に契約書の形で示した。併せて金子元宅の道後方面への野心も表明され、道後支配の際には守護領については御意を得るものの、元宅の望み通りに国分けを行う旨、確約されている。

天正十三年(1585年)6月11日

金子元宅より、息子 毘沙壽丸に対し置文が渡され、長宗我部家に対する忠誠の念押し、周敷之家を知行としてしっかり治めるよう託し、元親親子の命があれば西方面を担い、なにより弟等の面倒をよく見て、特に氷見の新発智丸をよく導き、仲良くすることが第一であると伝えている。

 

天正十三年(1585年)6月27日からの藝州軍渡海以降、【天正の陣】については別頁へ