天正の陣 戦闘経過 一次史料独自考察

天正の陣の戦闘経過を、一次史料より独自考察し、その真実に迫る。

天正の陣 毛利軍による伊予渡海

【天正13年6月27日】《渡海出兵準備》萩藩閥閲録

 

小早川隆景から冷泉民部少輔(冷泉元満であろう)への書状で、

「我等(小早川・吉川・宍戸・福原以下)今月打渡候、出陣の心づもりである」としており、

今月とは、天正13年6月は小の月であるため29日までであるから、少なくとも“先手”の小早川隆景は月内に今張津へ渡ったものと思われる。

【天正13年7月5日】《天正の陣 始》吉川元長自筆書状

 

吉川元長、今張津着岸。すぐに隆景と対談した。

この、小早川隆景と吉川元長の対談とは何か。慌ただしい渡海出兵の中、吉川元長出陣の遅れなどもあり、伊予攻めの軍議なども渡海前には行えなかったことは容易に想像できる。ここで元長が書いたこともその根拠と言えよう。

書かれてはいないが、この軍議には主な将(一門・四人衆)である宍戸・福原も同席したであろうと考察する。

 

よって、この元長の今張津着岸ならびに隆景・元長の対談(軍議)を持って、天正の陣の始まりであると独自考察するところである。

天正の陣 開戦前の山陣【竹子】とは何処か

【天正13年7月5日】《初めに竹子に山陣》吉川元長自筆書状

 

吉川元長にとっての初め(渡海当日から)の陣営は【竹子】と申す所で山陣したと書かれている。

【竹子】とは、今張津から陸路南下し、越智郡と桑村郡の郡境にある『医王山』である(独自考察)。

 

愛媛県行政資料(藩政期・明治期)絵図-桑村郡-」の、「桑村・越智郡境実測」に記されている通り、

“『医王山』或 クヅレ岩 竹ノ子”とあり、この『竹ノ子』と伝わる場所が【竹子】であると考察する。

 

ここ『医王山』の場所であるが、古代山城「永納山城」の一角であり、桑村郡・新居郡方面からは死角でありながら、永納山の山頂からはその方面が一望できる場所で、

山陣を張る上で、野営しやすく、桑村郡・新居郡の動向を見渡すことができる上、城方(高尾城ほか)に動静を把握されにくいなどと最適な地理地形を備えた場所である。

宇野識弘による桑村郡攻撃

【天正13年7月11日】《宇野識弘軍忠状并小早川隆景證判》小松邑志 宇野文書

 

周布郡 黒川麾下であり、剣山城西北西至近の大頭 獅子ヶ鼻城主である宇野識弘が、寄せ手の小早川隆景に調略され、北隣の桑村郡に攻め入り、一族の宇野民部が大沢忠兵衛(高智村か?)と青野源蔵(旦ノ上村か?)を、また家臣の二見左近と福岡源三が廣田藤七(?)を、さらに嶋野左衛門は首七をあげて隆景に軍忠状を提出し、承認されている。

 

これは何を意味するのか。

 

周布郡(大頭村)と桑村郡(高智村や旦ノ上村)の位置関係を見ると想像に難くないが、

『医王山』に山陣する毛利の軍勢の南進前の“露払い”と言ってよい戦術であると独自考察する。

 

ここでも小早川隆景の慎重な戦術が見える上に、この時点ではまだ毛利の軍勢は『医王山』にあったと考えられるのである。

 

さらに、黒川麾下の宇野識弘が調略されていることと、その後の丸山城 黒川広隆の降伏とがまったく無縁とは言えないのではないだろうか。(※これについては一次史料がないため次頁で独自考察する)

毛利陣替【中陣】から高尾城・丸山城包囲

【天正13年7月14日】《中陣し、十四日高尾城幷丸山一ツに取巻》吉川元長自筆書状

 

上に考察した宇野識弘軍忠状のあと、

7月13日に野間郡怪島城合戦での宇野右馬之允による働きに対する隆景の感状が出されている(小松邑志 宇野文書)。これと天正の陣との関わりは不明であるが、慎重な戦術をとる隆景が、兵站としても最重要である瀬戸内海の制海権をなお確固たるものとするために攻めさせたものであるとするならば、この時点まで【竹子】(『医王山』)に山陣していたと独自考察する。

 

よって、【中陣】へ陣替えしたのは7月13日から14日にかけてと考察でき、陣替えしてすぐに高尾城と丸山城を取り囲んだと考えられる。

 

この辺りは兵法通りというべきか、【竹子】山陣中に、自軍の動静を把握させないようにしながら、密かに調略も進め、調略が実を結んだ時点で素早く南進し【中陣】、間断なく高尾・丸山両城を包囲したものと独自考察する。

【天正の陣 開戦】長曾我部による高尾城援軍 対 小早川軍による初戦

【天正13年7月14日】《長曾我部人数が後巻きに出、小早川初一戦》小早川文書(3書状)

 

小早川隆景が7月14日に出した折紙を、羽柴秀吉と羽柴秀次が7月21日に返信した書状が3通存在する。

そこには、

(1)秀吉から安国寺恵瓊へ;去十四日之書状、於大坂到来、加被見候、一与州内金子城被取巻候處、爲後巻長曾我部人数出候處、隆景元長以覚悟被及一戦、即時切崩、数多被討捕、両城被乗捕由、〜以下省略〜

 

(2)秀吉から小早川隆景と吉川元長(連名)へ;与州内金子城被取巻候之處、爲後巻長曾我部人数出候處、則被及一戦、切崩、数多被討果、両城被乗捕由、〜以下省略〜

 

(3)秀次から小早川隆景へ;仍長宗我部内金子相踏候城、御取巻候處、爲後詰敵催人数差向雖申候、於御手前被初一戦、悉被打果由、〜略〜 即以右響、敵方両城令落去子事、〜以下省略〜

とそれぞれに記されている。

 

これらと、吉川元長自筆書状とを併せて解読すると、

・14日時点では丸山城のみ落ちていたが、安国寺恵瓊を通した書状が大坂に届いたのが21日だとすると、その間に高尾・丸山両城落去、其以響により他城退散の報も、安国寺恵瓊を通して追伸されていたと見える。

 

・14日時点で、小早川隆景と吉川元長が揃って城を取巻き、長曾我部の援軍と初戦を戦ったのは、どう解読しても金子本城ではなく、高尾城であることは疑いない(与州内金子城/長宗我部内金子相踏候城との記述は、金子元宅が籠る高尾城のことである)。

 

・14日に小早川軍の初戦が、長曾我部援軍と行われた、これが天正の陣の緒戦であり開戦日である。ではこの“長曾我部人数”とは誰のことであろうか。一次史料に其の名は見られないため別頁で詳しく考察するが、ここで戦い、切り崩され、打ち果たされたのが【片岡光綱】による援軍であると独自考察する。

【丸山城 落去】

【天正13年7月14日】《丸山當日落去候》吉川元長自筆書状

 

7月14日の“丸山城落去”についての詳細は、二次史料を踏まえ次頁にて、また、[武将]黒川広隆の頁で、独自考察を記す。

【高尾城 攻防戦】

【天正13年7月15日〜17日】《仕寄返りしゝかき詰口等之儀、諸軍手柄をふるい》吉川元長自筆書状

 

これについても二次史料を踏まえ、次頁等で独自考察を記したいが、

ここでは『吉川元長自筆書状』に記された、小早川隆景とのやりとりについて独自考察を行う。

 

吉川元長は、14日に丸山城が落去った其の日に、小早川隆景に高尾城も攻め落とすべきだと進言した。

しかしながら隆景は、「(豫州境の仏殿城まで)先々数ヶ所之城々があり、とりわけ(其の先の白地城に籠る)長曾我部元親の軍勢との戦に及ぶまで、先々数編の戦があることを見据え、軽挙妄動は避けるべきである」という趣旨の返事をしたため、吉川元長は“是非に及ばず”仕寄、返り鹿垣、詰口等を設置し、準備を万全にした上で、総攻めを行ったのである。

 

なぜ丸山城は取巻いた当日に落去ったというのに、高尾城攻めには準備と時間をかけたのであろうか。

 

このことから独自考察できるのは、小早川隆景によって【丸山城が取巻く前にすでに調略されていた】であろうという事である。

【高尾城落城】と【野々市原の戦い】

【天正13年7月17日亥刻】《高尾城 落去仕候》吉川元長自筆書状

 

「城勢金子備後守を始めとし、宗徒者六百余一時に打ち果たした」とある。

時系列を独自考察すると、

7月17日“亥刻”(=20〜24時)に高尾城落城 → 宗徒者六百余を“一時”(=2時間程度;7月18日午前0〜2時)に打果候=『野々市原の戦い』

 

口羽通平が十月四日に児玉四郎右衛門尉(元言)に送った書状にて、

「殊高尾之城〜略〜、彼城被切崩候時、真鍋孫太郎(兼綱)被討捕候」ことを賞賛している。(萩藩閥閲録 六九)

 

【金子元宅討死】

8月6日に毛利輝元より赤木蔵人丞宛の感状(赤木文書)には、「今度高尾落去付而、金子備後守被討捕、〜略〜」と記され、それを受けて、8月10日に小早川隆景より赤木蔵人丞宛の感状寫(赤木文書)には、「今度高尾落去之刻、人鉢金子備後守被討捕、〜略〜」とあり、金子元宅は、高尾城が落去った後、赤木忠房により討捕られたのである。

これに関する私の独自考察は別頁に記させて頂く。

【将士の妻子等 落ち延び】新居郡六城退散・下伊予表五城明退

毛利輝元が、末次元康の伯耆国河原山城奪還に対する7月20日の感状(萩藩閥閲録)の中で、与州表之儀に触れ、「7月17日に金子城高尾之儀被切崩した其の響きを以って、石川城其外十ヶ所に余り落ち去ったとのことで、土佐境に到り、一昨日【=7月18日】陣替えをしたとのこと」と伝えている。

 

また、吉川元長自筆書状では、(7月18日午前0〜2時に高尾城勢を打果した)「其の響きを以って高峠 近藤 しやうし山 幷 小城 岡崎 金子本城 退散候、又下伊与表にも五ヶ所明退候」とある。

 

これらの城は、高尾城が落城し、金子元宅をはじめとした城勢が全滅したという報告を聞き、戦わずして「退散」「明退」したのである。

 

ここに金子元宅の天正の陣に臨む戦略が見えると独自考察する。その詳細は別頁に記すとして、

私(管理人)は、藤木久志氏著「城と隠物の戦国誌」(朝日新聞出版)の分析を支持しており、天正の陣を語る大半の書物も一般論の通り、城とは武将たちが籠城して寄せ手と戦うものであるということを前提として論じられているが、私(管理人)はそうは思わない。

 

独自考察ではあるが、天正の陣における寄せ手に対峙する戦うための城は高尾城ただ一城なのであって、その他の城は、高峠城は石川虎竹主従等が、金子本城にはカネ姫等金子元宅の妻子一族等が、生子山城には松木安村の妻子一族等が、それぞれ避難した避難場所であったと考察している。

 

金子元宅は、高尾城が落ちたらすぐに各人落ち延びるように開戦前に伝えてあったものと考察する。

よってその通り、「其以響(各城)退散」したのである。

 

なお、【下伊与表】とは、「下伊与=道後」(※戦場である道前が上伊与という認識であろう)「表=その方面(道前と道後の境の道前側)=周布郡」と独自考察する。よって、剣山城をはじめとした黒川麾下の五城であろう。

 

もう1点、【土佐境に到り】という記述に関しては、二次史料も併せて次頁にて考察してみたい。

【現 新居浜市部 焼き討ち】毛利軍による新居郡内 打ち廻り

【天正13年7月18日〜7月27日から五日中(8月3日前後か※七月は小の月)

上記の高尾城落城後7月18日の陣替から、吉川元長自筆書状による7月27日に「苅□□クチ」と云う所に着陣し、「仏殿与申一城」この書状(依返事)から「五日中陣替可仕候」までの約15日間ほどは、現在の新居浜市部に毛利軍は滞在していたと考察できる。

 

7月23日に毛利輝元から備後 神辺城の桂平二郎(元綱)と兼重左衛門尉(元続)に対し、「〜略〜長宗我部陣所五三里(五・三里か?)之間之由候間、土州衆手合手合候、左候条少成共人数可差渡由、被申越候間〜略〜」(萩藩閥閲録 巻20)として、また、8月2日には同じく輝元から矢田殿に宛、「〜略〜然ハ至与州諸勢差出候間、早々可有御渡海候、〜略〜」とあり、小早川・吉川・宍戸・福原ほか、主力を派兵している上にさらに援軍を送るよう手配しているのである。

 

これは、小早川隆景の慎重な戦術によるところもあろうが、吉川元長自筆書状には「〜略〜与州之者共、歴々罷居之由候、本陣相伺候之条、〜略〜」とあり、また、小早川秀包公手控(萩藩閥閲録 巻4)には、長宗我部元親より加勢の花房新兵衛と、宇摩郡表へ大物見した際に槍合わせし首を取った後、金子城を総攻めで落城させた旨が記されており、さらには7月27日に秀吉から小早川隆景と吉川元長に対し、「今度於予州新居郡、〜略〜 仍其表郡内へ可被打廻歟由、〜略〜」として新居郡内で打ち廻っていることに疑問を呈し、先に仏殿城を取巻くよう命令している。

 

これらからみても、毛利の軍勢は、上記の期間中、いわば天正の陣の約半分に当たる期間を現在の新居浜市部で“打ち廻っていた”のであり、その間に、次の頁で詳しく採り上げるが、新居浜の寺社を悉く焼き払ったのである。

 

一般的に天正の陣「高尾城の戦い」ならびに「金子城の戦い」と言われるが、『高尾城の戦い』の後に『天正の陣 新居郡東部 焼き討ち』と言った方が正しい表現であると独自考察するものである。

天正の陣 毛利軍【仏殿城】へ陣替

【天正13年8月6日】(※閏7月6日の間違いを修正)に羽柴秀長から安国寺恵瓊と、小早川隆景それぞれに送られた書状(吉川家文書)にて、「就佛殿表御陣替〜略〜」したことを隆景からの手紙で拝見したと言っている。

 

また、吉川元長自筆書状では【7月27日から五日中】に仏殿へ陣替するとある。

 

これらから見るに、【8月3日前後から遅くとも8月5日まで】には仏殿城へ陣替えが完了していたものと考察できる。

 

羽柴秀長から小早川隆景に送った上の書状には、長宗我部元親の降伏を許す旨が報じられ、羽柴秀長から同じく安国寺恵瓊に送った書状ではさらに、隆景に対し、伊予の諸城請取りのことへ注意を促している。

 

これから考察するに、この時点で四国征伐は終わりを迎え、同じく天正の陣も終わったものと考察するところである。