八幡山陣ノ尾の戦い

天正の陣の一次史料に明記されている戦いの一つに、

“長曾我部援軍が後巻きに攻め来り初戦し討果”とあり、

詳しくは、「一次史料からみる天正の陣」頁にて紹介した。

 

この、小早川隆景率いる毛利軍と、新居・宇摩の郷土軍側との緒戦とも言える戦いを独自考察する。

天正の陣 緒戦の地「陣の尾」

寄手側の一次史料では、小早川・吉川の軍勢は、初め「竹子」に山陣し、

その後、陣替して「中陣」(場所の明記は無し)して後、「高尾城ならびに丸山を一つに取り巻いた」とある。

このあたりのことは、「天正の陣 一次史料独自考察」頁にて紹介した。

それに対し、新居・宇摩側の郷土に残る二次史料には、

“八幡山陣ノ尾”の表記が複数見られる。一部を紹介すると、

 

『澄水記』には、「高尾ノ麓八幡山陣尾近く押寄せて」とあり、

 

また『西條誌』が、○石岡八幡宮の項にて、

「あまつさえ近辺を放火し、災い当社に及び、古記旧録みな烏有となる。今ただ八幡大神宮私記というもの存すといえども、元禄年中、神主玉井対馬守が、古老の口に遺れる話を書き集めたる一冊子にて、信を取るに足らざる兎園(卑俗な)の草紙なり。」としながらも「外に拠るべき物なければ」「覧人よろしく取捨あるべし」と注意書きを入れた上で採用した、

『八幡大神宮私記』には、「当山の西の尾の上を陣の尾という。天正兵乱の時、鑓合わせの所なり」とある。

その他には、愛媛県立図書館の『新居郡地図 地誌付』年不詳の古地図(https://adeac.jp/ehime-pref-lib/catalog/mp000100)の当該場所(字宮ノ下)あたりに、野々市原古戦場や城跡に記される“古跡”記号が配されている。

これらはどれも、現在の西条市氷見の宮之下が「陣の尾」が天正の陣の緒戦の地であったとの確証を得られるものでは無いことから、現地を探訪し、独自考察を深めてきた。

石岡神社の土地であった「宮ノ下」

西条市氷見の「宮ノ下」

ここが「八幡山陣ノ尾」であると仮説を立て、現地を訪れた。

 

その際、幸運にも地元にお住まいの方からお話を伺うことができた。

その方曰く、

(1)宮ノ下は古くは「石岡神社」の土地であったと。

(2)近くの民家の中にも沢山の【お塚さん】があり、ご自宅の敷地内にもあると。

(3)石岡神社の西の高まりを指して「ここに小早川軍が陣を張った」と。

教えてくださった。

 

(1)の通り、「宮ノ下」が昔は「石岡神社」の土地であったとすれば、

現在の「石岡神社」境内敷地だけでなく、「宮ノ下」地区も境内かそれに準ずる土地であり、

石岡の台地全体に小早川軍が陣を張ったと仮説できなくもない。

 

また、『氷見公民館だより』(平成27年3月号)(https://www.city.saijo.ehime.jp/uploaded/attachment/12948.pdf)に、

「宮の下は石岡神社の社記には延宝5年(1677)境内の向きを改めると記されており、

それより以前は参道が宮の下の方にあり石岡神社の入口だからこの地名がつき」と書かれており、

二次史料ではあるが(1)を裏付けるものとも言える。

 

これは、「宮ノ下」に実際に足を運ぶと、台地から「高尾城」を見通すことができ、

相対して陣を張るのにこの上ない立地であることは疑いない。

お塚さんが点在する地「宮ノ下」

(2)の通り、実際に周辺を歩くと、

道端からだけ見ても、少なくとも6基の【お塚さん】を見つけることができた。

 

それぞれの由緒は不明であるが、

個人宅の敷地内にも多数ある(※)ということを鑑みても、

これほど一つの地区に多数の【お塚さん】が点在することは何かを物語っていることは疑いなく、

 

【お塚さん】伝承の一つに“天正の陣で討死した武士を祀る”という謂れがある以上、

この地で少なくない天正の陣の討死者があったと仮説が立つ。

 

※地元の方にお話を聞くことができなければ、個人宅の敷地内にも多数の【お塚さん】があることは確認ができなかったことを考えれば、このご縁に感謝したい。

小早川隆景率いる毛利軍が陣を張った「宮ノ下」

(3)で指された地は、「宮ノ下」の北端、現在は畑地、あるいは荒地になっている高台である。

 

ではなぜ、小早川隆景が陣を張った「石岡神社」や「宮ノ下」に【お塚さん】が多数あるのか?

 

圧倒的大軍で攻め寄せた毛利軍の本陣と言える地に“討死者を祀る”【お塚さん】が点在するのか?

 

これは明らかに、

高尾城に籠城する新居・宇摩の郷土軍への援軍(後詰め※)との決戦があったと考えられるのである。

 

(※)後詰め決戦;戦国時代、多くの戦いを見ても、

籠城している支城に対する、領主、盟主による“後詰め”はその義務と言って良く、

“後詰め決戦”または、想定していた“後詰め”が送れない(防がれる)ことは、

その戦の勝敗を左右することが少なくなかった。

爲後詰敵催人差向雖申候、於御手前被初一戦

小早川文書にある、羽柴秀次から小早川隆景にあてた書状の一文である。

 

まさに、

超曾我部からの後詰めとの決戦が、天正の陣における小早川隆景の緒戦であったことが、

一次史料に書かれている。

 

今回、「宮ノ下」現地探訪と、地元の方からのお話、そして一次史料とを勘案し、

私はこの「宮ノ下」において【八幡山陣ノ尾の戦い】後詰め決戦による緒戦=鑓合わせが行われたものと、

独自考察するところである。

“爲後巻長曾我部人数出候”土佐援軍の将『片岡光綱』

土佐援軍の将【片岡光綱】こそこの“後詰め”決戦の将であるとの私の独自考察は、

【片岡光綱】頁に詳しく記してある。

 

そちらでも述べたが、【片岡光綱】による援軍は、白石友治氏による金子城北谷口へ来たと言うものではなく、

高尾城方面へ向けられたものであろうことを二次史料から独自考察したものも、

同じく【片岡光綱】頁に詳しく記してある。

 

そちらでも述べている通り、

一次史料に見える天正の陣への土佐援軍は、この小早川隆景に向けられた“後詰め”の他には、

花房新兵衛だけであり(※別頁参照)、小早川秀包公手控によるとその場所は金子本城であると読み解けるため、

残るこの“後詰め決戦”を行ったのが、この【片岡光綱】であると独自考察できるのである。

石岡神社(宮ノ下)小早川陣を突いた片岡光綱による後詰め決戦【八幡山陣ノ尾の戦い】

これまでの独自考察により、

旧石岡神社境内から参道敷地であった「宮ノ下」の範囲に陣を張った小早川隆景に対し、

長曾我部元親の命を受けた後詰めの将『片岡光綱』が隆景本陣へ後巻きに攻めかかり、

あえなく討死して敗れた戦いが【八幡山陣ノ尾の戦い】であろうと結論付けるものである。