高尾城の激戦

小早川隆景は慎重かつ深慮な名将である。

 

後に秀吉より「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か小早川の隆景よ」と評される程であった。ただ「天下を取るには勇気が足りない」とも評されたとのことで、まさにこの天正の陣においてもその気質が影響したのではないだろうか。

 

前述の通り、15倍近い兵力差で圧倒しながらも金子城攻略後の東兵との合流を待って高尾城攻めを行うという慎重さで、東兵の新居浜方面の戦局の思わぬ苦戦により、六月二十七日の御代島城攻めから七月十八日の野々市原の玉砕まで、この天正の陣に二十日以上の日数をかけて苦戦しているのである。

 

天正の陣最後の戦いとなる高尾城の激戦から野々市原の玉砕までをここにまとめる。

 

※概要はホームに記す。

籠城戦経緯

日付 戦闘経緯 ※吉川元長自筆書状/金子備後守元宅(白石著)などより
7月2日 小早川隆景、御代島城を落とせず、反転して中山川河畔に上陸し八幡山に着陣。
〜7月13日 寄せ手は高尾城とその支城を大軍をもって包囲したまま東兵の合流を待つ。
7月14日夜

金子城落城により東兵が寄せ手に合流。全軍で高尾城・里城・丸山城を包囲。

高尾城の最前衛丸山城の黒川廣隆が人質を出して投降開城。小早川の軍門に下る。

7月15日

寄せ手による城攻め開始。次々と仕寄り、鹿垣を立て、里城の詰口へ攻め立てた。

7月16日 里城の詰口(切川側西口)にて終日攻防戦が続く。
7月17日早朝 小早川勢圧倒的大軍で総攻撃。高尾城里城落城し、守将高橋美濃守政輝討死。
7月17日日中

城方の将、真鍋政綱・孫九郎・孫十郎の哀話。父子共に討死。

城方の将、弓術の達人で大豪の者、真鍋兼綱、弓撃ち尽くすまで奮戦するも討死。

吉川元長、尾根伝いの高みへ数本の大筒配し里城中へ撃ちかけ、塀を破壊。

7月17日夕刻

寄せ手、投降の将黒川廣隆の家臣の先導により高尾本城の背後高地へ鉄砲隊を配し撃つ。

7月17日夜

亥刻(22時前後)金子勢、城に火を放ち夜陰にまぎれて城を放棄。高尾城落城。

7月18日

高尾城の残兵、高峠城の守兵ともに城を出て野々市原にて玉砕。