金子城の激戦

天正十三年七月十八日、備後三原の陣営にいた毛利輝元が、安芸二子城の留守城番であった桂左衛門太夫就宣に宛てた書状にも「豫州表金子城のこと、やっとのことで落とせたようである」と報せていることや、

 

土佐の史書には特に金子陣としてそれぞれ金子城激戦の記事を載せてあるだけでなく、土佐方の援軍として金子城に入り城将と共に北谷口に於いて戦死を遂げた片岡下総守光綱や、馬淵口に於いて小早川秀包の為に討たれた花房新兵衛等の記事があり、光綱の率いる土佐援軍中の金子城に入った将士の名が百五十余人も明記されるなど、この金子城の激戦を物語る史料が残っている。

 

それではこの金子城での激戦がどのようなものであったのか、ここにまとめてみたい。

 

※概要はホームに記す。

籠城戦経緯

日付 戦闘経緯
7月2日早朝 福原式部小輔・宍戸彌三郎等の率いる東兵、垣生湾から宇高に上陸。
7月2日午前〜午後 東兵、垣生・郷・庄内の諸砦を焼き払い、岡崎城を占拠。
7月2日夕刻 東兵西進し、金子川(金子城外堀)に到達。
7月2日夜間

籠城戦開戦。寄せ手は大手東口・北谷口・寺門口の三方より攻めかけた。

7月3日早朝〜午後

土居構周辺で戦闘。午後、土佐の援軍片岡光綱の一隊が到着し寄せ手を撃退。

7月4日〜5日

攻城戦戦局は膠着。5日吉川元長が今張津上陸、小早川隆景と軍議の末東進。

7月6日

元長天神山から磯浦越え、名古城、御代島城、王子山砦を陥れ、一宮社を焼く。

寄せ手の将宍戸元秀、高築砦を焼く。城兵は尾尻川(内堀)の西に退却。

7月7日午前

元長、降使を城内へ遣わすも金子元春これを断り、使者を饗応して返す(伝説)

7月7日午後

寄せ手による総攻撃も城表口は落ちず。城方土佐援軍の将片岡光綱討死。

7月8日

元長、城側面を攻めんとして御茶屋谷方面を攻めるも敗退(陣張谷・伏谷の戦)

7月9日

寄せ手は引き続き城西方御茶屋谷を攻めるが城方の大勝。

7月10日

元長全軍を城正面に集中し総攻撃。城方の名古城主野々下勝政等多数討死。

7月11日

早朝より総攻撃継続。炎天下での防戦に城方の疲労はピークに達する。

7月12日

遂に土居構の各門は突破、さらに山際の防衛線も破られ城方は中央出丸迄退却。

7月13日

城方必死の抵抗によりチヌ池が血塗り池となる。

小早川隆景、金子攻城戦苦戦の報に接し、其の子秀包を援兵として向かわせた。

7月14日早朝

小早川秀包により馬淵にて土佐援軍の将花房親兵衛討死。

7月14日日中

城面の諸砦、中の出丸まで落とされ、寄せ手本丸に迫る。

7月14日午後6時

金子城落城。守将金子元春以下動けるものは御茶屋谷より落ち、残る将は自刃。