毛利家 小早川軍上陸による天正の陣開戦

小早川勢の第一上陸地点と御代島攻撃

先ず小早川隆景率いる毛利軍の総勢推定は先述の通り侵攻軍実数は1万5千程であると考えられる。

 

そのような大軍を武器弾薬ならびに兵糧とともに瀬戸内海を無事かつ速やかに渡海させるには村上水軍の力が必要不可欠であったことはいうまでもない。

 

この四国攻めを期に、村上水軍内でも来島通総率いる来島勢は小早川の先鋒となって働いたが、能島村上武吉は従わず、旧領を追われ屋代島・能美島を与えられている。この処置は四国攻め渡海の安全な航路確保のためという要因があったと考えられる。

 

このことから、能島村上氏の旧領であった唐子山の国分城下、今治浦に先発の小早川隆景が上陸したことは上陸地点の安全性、接岸可能性から見て間違いないと考える。

 

そこを上陸拠点とし、伊予における長宗我部直轄勢力ともいえる金子元宅率いる新居・宇摩二郡の勢力圏攻略を大戦略とした毛利の軍勢は先ず御代島を攻撃している。

 

これはこの地域の制海権を獲得を優先した戦術であろうと考える。

 

小早川隆景の戦術らしい確実性、安全性を担保しようとした戦術である。

隆景の誤算

小早川隆景は【六月二十七日】に今治浦に上陸し、【翌二十八日】軍中制札をしたため、その上で宍戸・福原の到着を待って城攻めするとした。

 

この「城攻め」とは、金子元宅率いる新居・宇摩二郡の諸将が総力を集結している「高尾城攻め」のことであろうと思われる。

 

圧倒的寡兵の新居・宇摩の軍勢はその全勢力を結集し、要害高尾城に籠城して時間を稼ぎ、長宗我部本軍による援兵を待つ作戦で、高尾城以外の諸城はもぬけの殻であろうと考えた隆景は、確実で安全な勝利の為に、先ずは制海権を獲得し、その後高尾以外の諸城を制圧し後顧の憂いを完全に絶った後、自軍の総力を以て高尾の金子元宅を圧倒しようと考えた。

 

澄水記・天正陣実録によると、「大将小早川隆景が兵達に向けて「元来新居宇摩両郡の者達はおそれをしらず、土民や下々のものに至るまで長い脇差しをさし、常に鍛錬をし、他人の下手に立たないことを信念としている。かるはずみに敵地へ乗り込んでむやみに討たれるな、不覚を取るな」と下知して云々とある。

 

これは後の世に記されたものであり、実際はその苦戦の状況を反映してこのような記述が行われたと考える。

 

隆景は制海権ならびに高尾城以外の諸城を制圧するのは、新居・宇摩二郡の軍勢が高尾城に集結していることから、自軍の半数近く、数千の軍勢を割いて臨めば難しいことではないと考えていたのではないだろうか。しかしそれが隆景の誤算であった。

 

これは後にゲリラ戦に悩まされ、当初の禁を破って神社仏閣をことごとく焼き払ったことや、この作戦別働隊である宍戸・福原の「東兵」に吉川元長を合流させ、自らの弟で養子の小早川秀包をも金子城攻城戦援軍に送っていることを考えても、当初戦術の想定外の苦戦を強いられたことに間違いないのである。

小早川勢による御代島攻めの失敗と前線への再上陸

来るべき決戦に備え、伊予方面の最前線と位置づけられた新居・宇摩地方の総大将金子元宅と長宗我部元親の迎撃方針が一致していたことは金子文書によっても分かる。

 

その戦術は敵勢の上陸を水際で防ぐことであった。新居・宇摩二郡の海の拠点は加藤三家(民部正・彦右衛門・清太夫)の御代島城であった。かつての石川・黒川の戦における活躍もその根拠となろう。

 

御代島城と浜辺の名古城は金子城の前衛で、御代島の城主加藤民部正は金子を介し、先年元親から盟書を与えられ、人質を出し、また前年八月頃から既に多大の工事費用を支給され、島の周囲に逆茂木、乱杭を取り構え、石垣を修築し、岸壁を削って嶮しくし、砦を強固にして、金子氏の持城として之を警固していた。(天正十二年八月十八日付元宅宛瀧本寺栄音の書状より)

 

制海権を獲得すべく御代島を攻撃した小早川の先発隊は二・三日に渡り圧倒的な大軍で攻め続けたが、要害と化した御代島城方の頑強な防戦により海からの攻撃をあきらめざるを得ず、隆景は緒戦から作戦変更を余儀なくされたのである。

 

【七月二日】、隆景は御代島城攻城を断念し、同城を海上封鎖したまま、福原式部小輔・宍戸彌三郎等の率いる先発隊「東兵」を早朝東に移動させ、垣生湾に上陸させた。さらに自らの本隊を高尾城攻城戦の最前線となる八幡(現在の石岡神社)に上陸、着陣したのである。両上陸地では迎え撃つ金子勢の監視兵ならびに機動部隊の抵抗にあい損害を受けた隆景らしからぬ強引な上陸であったが、緒戦の作戦失敗によってやむを得ないものとなったのである。

 

※当時の西条地方の海岸線は現在の埋め立てられたそれより遥か内陸部を走っていた。隆景が上陸布陣した八幡の辺りが海と山が最も迫るボトルネックとなっており、よってかつての石川・黒川の戦後、高尾城が築かれ、西群境との防衛拠点としたのである。天正の陣に於いても金子元宅が二郡の総力を結集して高尾城に籠ったのも、今治方面からの進軍に対する最重要拠点であったからなのである。

戦闘開始

【七月二日】、高尾城の眼前、八幡の地に上陸した小早川隆景の本隊と、垣生湾を中心に上陸した福原式部小輔・宍戸彌三郎等の率いる東兵は共に、上陸阻止を第一としていた高尾・金子両城の監視兵と戦闘を開始したようである。

 

この天正の陣、毛利の大軍を迎え撃つ新居・宇摩二郡の大戦略は、秀吉による三方からの四国攻め、その一つである毛利軍の白地(長宗我部元親の本陣)への進軍を阻止するの一点であった。

 

ゆえに二郡の盟主金子元宅の戦術は、毛利軍進軍の最大のボトルネックとなる高尾城と、自らがこの来るべき戦に向け防御工事を進めた堅城金子城との二城に二郡のほぼ全勢力を集結させ、一所懸命に籠城することで、出来得る限り毛利の大軍を引き止めることにあった。

 

よって、その他の二郡の城・屋敷はことごとくもぬけの殻であったと考えられる。にも関わらず、東兵は岡崎城・富留土居城・高橋丹後守屋敷・垣生八幡社、その後一宮社をも含む神社仏閣まで焼き払いながら西進した。それはなぜか。

 

戦国期の戦において民衆はその領主の城に逃れて難を避けるのが常であったが、この二郡の民衆は異なっていた。上陸部隊に対して空城や神社仏閣に籠りゲリラ戦を行ったのである。

 

これは一説には長宗我部の一領具足の制度を金子元宅が導入したとあるが、小早川隆景が「元来新居宇摩両郡の者達はおそれをしらず、土民や下々のものに至るまで長い脇差しをさし、常に鍛錬をし、他人の下手に立たないことを信念としている。かるはずみに敵地へ乗り込んでむやみに討たれるな、不覚を取るな」と言ったことから見ても、またこの二郡の地理的要因(河野氏と細川・三好氏の緩衝地帯)から見ても、常に脅威にさらされてきた民衆に根付いた自衛手段であったとも考えられる。

 

当初小早川隆景により神社仏閣などに火をかけることは禁じられていたが、その禁を犯さなければならない程のゲリラであったことはその事実から容易に想像出来る。

 

ともあれ、毛利の軍勢による新居・宇摩二郡侵攻は、開戦当初より相当に厄介なものとなったようである。

 

その後、吉川元長の部隊が七月五日に今張津に着岸、すぐさま小早川隆景と合流して軍議を開き、元長は磯浦越えの間道から名古城の背面を突き、加藤民部正の籠る御代島城を攻めることとなった。

 

この吉川元長の着陣が遅れた理由を推測する説は病気や兵站などいくつかある。しかし、事実金子城攻めの東兵を指揮するべく東進したことからも、この新居浜における先発隊東兵の苦戦が裏付けられるのではないだろうか。(そもそも東兵の指揮官だったとは考えにくい。大将が兵站の指揮を執り、部下が先発隊を率い最前線に赴くような戦術は採らないであろう)