新居・宇摩における石川氏の台頭

細川河野両氏の緩衝地帯としての新居・宇摩二郡の中心である高峠城において石川氏が台頭した背景には複雑な要因が重なり合っている。

 

そのあたりを紐解いてみたい。

高峠河野予州家

室町時代の伊予国守護職は河野細川両氏によって争われたが、その戦略的要衝となったのが新居・宇摩二郡であった。

 

その攻防のなかで南北朝時代1379年、細川頼之に攻められ伊予国守護河野通堯が敗死。

1381年将軍足利義満の仲裁で両氏が和睦、通堯の子河野通義(前名;通能)に伊予守護職が安堵されるも新居・宇摩二郡は細川の知行となり、次男河野通之が細川頼之の猶子となり高峠城に入った。

 

この新居・宇摩二郡の細川への割譲と、その領主として河野予州家が成立したことが、その後の河野家衰退、そして新居・宇摩二郡の争乱の背景となった。

 

そしてこの高峠城河野予州家に細川の付家老として派されたのが高峠石川氏の始まりである。

 

 

【河野予州家】通之-通元-通春-通篤-通存-通能-宗三郎

在地石川氏と石川備中守

1467年応仁の乱の後、時代は1493年の明応の政変により室町幕府体制が瓦解、戦国時代に突入した。

 

その後も1507年には永正の錯乱が起こり、畿内は長期対立抗争状態の両細川の乱となる。

 

中央争乱の余波は伊予国河野氏をも巻き込んでいく。応仁の乱で西軍に与した予州家河野通春と東軍に与した本家河野教通の抗争により河野氏は衰退する。

 

その後も本家と予州家の権力争いは続くが、予州家河野通存は大永の初め(1521年頃)高峠を出て湯築城にほど近い柳原に居を移し、本家河野弾正小弼通直の補佐という名目で実権を握ろうとした。

 

通存が柳原に居を移すのと時を同じくして大永二年(1522)備中から石川左衛門尉の子虎之助が高峠城に入城している。これが石川伊予守(のちに備中守)通昌である。

 

古文書によると河野伊予守通存の長男に通政、次男にこの通昌、三男に通能、四男に通宣の名があり、近年の検証で長男通政と四男通宣通存の子ではなく弾正小弼通直の子であることが明らかになりつつあることから、通存が本家の実権を握る為にこの二人を養子としたと思われる。

 

さらに中央での争乱続く細川野州家の領する備中から通昌を猶子に迎え、伊予守として高峠に入れたことは河野細川両氏にとって緩衝地帯としての均衡を保つという双方の利害関係が一致したことによるところが大きく、通存にとってはこの方面の憂いを絶つことで河野本家での権力闘争に集中する目的があったと推測する。

 

その後、享禄年中(1528〜1531)高峠城に河野伊予守弾正小弼通能が居たことが宇摩郡高倉文書に記されている。他三人の子等皆養子にて、通存には子種がなく、この通能もまたどこかからの養子ではないかと推測出来る。通能のみが通存の子であれば予州家ではなく本家の家督につけようとするのが自然だからである。

 

だとすると通存は猶子そして伊予守として備中から迎えた通昌(以後備中守)に譲位させ、通能を伊予守としたことになる。さらに通存の寵臣で在地石川氏の石川源太夫に通能を託している。これは明らかに細川氏を背景とする石川備中守通昌が力を持つことへの予防措置であろう。

 

このことが後に高峠における河野党と細川のち三好氏を後ろ盾とする石川党との争乱の背景となったのである。

 

※以下に新居・宇摩における石川氏台頭の前提を俯瞰してみるのでご参照頂きたい。(クリックで拡大)

石川氏の台頭
※クリックで拡大し読みやすくないます。

周布郡黒川との戦による高峠河野伊予守・石川源太夫体制の確立

在地石川氏でその塚が“おたちきさん”「大太刀君さん」と呼ばれ、領民にも慕われていた知勇兼備の将石川源太夫は、主人である河野通存の命に従い、伊予守通能をよく助け、高峠の政務を取り仕切っていたために、石川備中守通昌とその一党はその麾下に甘んじるほかなかった。

 

享禄二年(1529)(※久門善右衛門への感状より)隣接する周布郡初代旗頭で黒川家十四代総領として享禄元年に剣山城を築城した黒川肥前守元春と石川備中守の郎党による郡境の小競り合いが戦に発展する。

 

勢いに乗る黒川肥前守元春は、石川備中守ごときに侮られまいと急ぎ兵を集め剣山城下の舟山に布陣したので、高峠城主河野伊予守通能と石川源太夫は陣触れを出し兵を集め、迎え撃つべく八幡山(石岡八幡宮)に陣を張った。

 

その緒戦で高峠勢は船形の近藤但馬守、吹上の塩出左衛門之助が黒川勢の久米采女、戸田四郎左衛門等を討取るも乱軍の中戦死。明確な勝敗は決しないまま両軍は兵を退き揚げた。

 

攻めきれなかった黒川勢は来島村上海賊衆(天正陣実記ほか文献には来島・徳井(得居)などとあるが、享禄年間にはこの名乗りはしていない)に援軍を申し入れ、高峠城下舟形まで兵を退き、各郡衆も各々の城に引き返し手薄な上、緒戦で疲れて休む高峠勢に夜襲をかけた。

 

急襲され混乱を極める高峠勢を城の傍に居を構えていた工藤丹後守、土山城の難波江等がよく防戦したものの工藤丹後守討死(享年三十五)し、いよいよ防ぎきれぬと河野伊予守通能は腹心の石川源太夫を呼び自害しようとした。それを源太夫は押し止め、石川備中守等と共に嶮しい山伝いに逃れ、高峠急襲の報を受け駆け付けた塩出、徳永等の郡衆とも合流し、新居郡東部、現在の西条から新居浜方面へ逃れた。

 

この敗戦が転換点となる。高峠を脱出した河野伊予守通能と石川源太夫は石川備中守通昌派であった金子十郎元成の助けを得て、生子山城松木氏の館にて難を逃れた。このころの新居郡東部は金子氏を中心とする石川備中守派となっていたものと思われ、この時点からその存在感が増すこととなる。

 

その後、生子山城の松木館において二郡の地頭給人が集められ軍議が行われた。その席上、金子十郎を始めとした新居郡東部の諸将は「二郡の総勢を以て海路黒川本陣を急襲した後兵を分け挟撃することで猶予を与えず厳しく攻めるよりほかはない」と主張、御代島の船手加藤民部正の兵船四十隻を廻させ、之に乗り兵を発した。

 

高峠勢は八幡山に上陸、物見によりこの動きを察知していた黒川勢は大将肥前守元春の本隊を舟山に進め、後方剣山城大手門の櫓にも兵を配し「こたびこそは高峠勢の息の根を止め、新居宇摩二郡を手中にせん」として総力戦の構えをとった。

 

しかし猛将“大太刀君”石川源太夫、宇摩郡の巨頭薦田等の獅子奮迅の戦いに加え、作戦通り松木、野田、高橋等別働隊による挟撃が成功し黒川勢は壊滅、大将肥前守元春もあわや討死というところまで追い込まれながらからくも逃げ延びた。

 

この高峠方大勝利にて新居郡東部の石川備中守派金子十郎元成を中心に恩賞が与えられその勢力が強化され頭角を現す。

しかしながら石川源太夫もその献策により敗軍の将黒川肥前守元春に周布郡の領有を認めるとともに、この後氷見高尾城を築き(享禄4〜5年築城)、郡境の重要拠点であるとして石川源太夫自ら高尾城主となりその基盤を強固なものにしたと考えられる。

これにより石川源太夫体制は確立され、この施政は郡中錯乱となる天文二十年頃まで約二十年間続くこととなる。