金子城の激戦(後半戦)

377頁から414頁まで

吉川元長着陣と金子城支城陥落

【その翌日(四日)】は毛利兵前日に懲りて土居構に近寄らず、土居の二三町手前に兵を横隊に並べて、飛び道具の戦に日を暮らした、それでも騎兵隊の面々は金子川に沿った東口(現在の金栄大橋東詰か)から東土居の高築に押し寄せて一箇所だけでも攻め破ろうと焦ったが、流石は名将元宅に養われた兵だけあって、駆け引きは全く大将の指揮通りに動き、土居の中より射出す弓・鉄砲は思いのほか正確で、寄せ手はこれに悩まされ、容易に近寄ることが出来ず、むなしく対峙するほか無かった。

毛利家殿軍の将吉川元長は、【五日】、今張津(現在の今治、大浜及立花村八町地方を指す)に上陸し、直ちに東進して隆景の陣所に至り、軍議を凝らし、その日は竹子と言う所にて初めて陣を取り、【六日早暁】から陣を天神山(西条市船屋)に据え、そこから磯浦の嶮を越え一挙に名古城を追い落とし、続いて加藤三家が籠る御代島城を襲ってこれを陥れ、それより兵を二分し一方は王子山の砦を攻め、他方は敗兵を追って宮地方に至り、一宮神社を焼き払ったことは、「一宮社の兵災」の項に於いて述べたので、ここには王子山の激戦を説こう。

御代島城、名古城の敗兵の大部分は金子城と王子山砦に入って守備を固めた。王子山の要害は前に「金子城の地形と要害と防御工事」の項に於いて総括的に述べておいたが、前には紺碧の色をたたえた大淵という湖水があって渓流が砦を廻り、東西は口(現在の岸の上)江口新田、名古付近一円沼田であって、兵馬の足を立つことが出来ず、隘路のため大軍を進め難いので攻めるのに難しくて、機敏峻烈なる吉川勢は名古城を根拠として新手を差し替え、手厳しくその側面から攻立てたので、衆寡敵せずその日の夕刻遂に攻め破られた。ここでの戦は余程激しかったようで、つい先年まで赤土を掘ると甲冑の腐蝕したものが沢山出た。その日味方の討死した者甚だ少なくなかったが、その名が伝わる者は金子新田を開いた塩崎播磨守通兼である。この日城方にとっての大損害は毛利勢宍戸彌三郎(元秀)の手兵の為に高築の砦を焼かれ、城兵は尾尻川の西に退却を余儀なくさえたことであった。

金子城北谷口の激戦

【七月七日】勝ち誇った吉川元長の軍は金子城の土居構に押し寄せた。元長が金子城に到着した時には既に土佐方の援軍片岡下総守光綱の一隊は散々に毛利軍の東兵を悩まし、城中に入り金子元春と謀議を凝らし、この二三日の戦にはいつも城方の勝ち目でにわかにその勢いを倍増した。

元長着陣の後も城兵は要害に立て籠り、地理を利用し、深夜奇襲して寄せ手を駈け悩ませた。敵が大挙して来れば城兵、土居構の中に隠れて弓矢鉄砲を乱射した。寄せ手は連日連夜新手を差し替えては攻め戦ったが、兵を損ずるばかりである。水も兵糧も豊富に蓄えて城内は微動だにしない。城兵は僅か六七百に過ぎぬが、人馬の足の立ちどころもない天嶮を楯に頑強な抵抗を続けて居るので、平野の合戦と違いさしもの毛利軍も手の下しようがなかった。

隆景最初の命令は「長陣を厭わず、決して無理な攻め方はしてはならぬぞ。もし城を攻め落とさなくとも、敵の手勢を抑え、自由に打って出ることを牽制するだけでよい。」とあった。性急な元長は、このような小勢に悩まされていたずらに日を送ることを焦り、東兵の諸将と議し、大軍を賭して遮二無二これを攻め落とすべきか、いたずらに曠日持久の策に出るべきかを謀り、天野(元政)・松岡(頼利か?※吉見家臣。通称・三郎兵衛。)・香川(香川家の誰か不明)の輩、口を揃えて云うには「僅か千騎に足りぬ敵を相手に命を惜しんで戦らしき戦もせず、味方の士気を疲れさせ、兵糧を費やすような損耗には耐えられませぬ。これしきの小城一ついつまでも持て余しては、いたずらに人の嘲りを招くことにもなりましょう。そのうちに隆景公が高尾を片付けてここに来られれば、この城を陥れた功はかの殿に帰しまする。いざ我等は先陣して物の手並みを見るべしと息巻いたが、東兵の中には隆景の命令を守る穏健派もあって容易にこの説に賛同しなかった。偶然金子と相知れる井上某(景家か。(1568~1636 此時17歳 井上利宅の子。父の死により、八歳で家督を相続する。成人後は隆景の家臣として御旗奉行を務め、四国侵攻戦、朝鮮・碧蹄館の合戦で活躍した。)が隆景の使者として来て言うには「この城は守りが堅くさらに山も嶮しい。大勢を頼んで手詰めの戦をすれば、味方の損害は計り知れない。某金子氏と相知る、すなわち主命を帯びて城中に赴き降参を勧めるべきである。」と言ったので、元長等は之を承諾し井上をして金子城に入らせた。

井上某は単身使者として城内に入ると、城中では丁重に使者を迎え「どのような御用での御使者でしょうか」と問えば、井上が言うには「元長、隆景の代命を蒙ってこの地に軍勢を出したのは、長宗我部元親が四国に盤踞して帝の命を軽んじ、上洛しないために、秀吉朝命を奉じ元親を征す。御辺等元親に頼まれ、天下の大軍を引き受けて籠城されてもう幾日も保てるものではござりませぬ。無益の戦を止め、城兵を助けて降られるのであれば敢て咎めることはござりませぬ」と情義を尽くして説いたが、城兵はあらかじめわかっていた事であるので城将元春が言うには、「貴辺日頃の御厚意による折角の御芳志に背くことに当たりますが、一旦身命を賭して土佐方に与し、義理を立ててこの城に籠った上は、矢玉のあらん限り御手向かい申すと、隆景・元長両公にお伝えくだされたい」と使者にはチヌの池に囲っておいた鯉を台所に命じて料理させ、盛んに酒食を饗応し、城中はなおこのように余裕があることを示して之を返し、城の結束は一糸も乱れなかった。

 

考証

吉川元長自筆書状に竹子に山陣し後中陣すとある。隆景の中山川付近に在ると、東兵宇高新間に陣を据えたこととに考え合わせ、下島山船屋地方にある天神山は丁度中間にあり、中陣という表現によく当てはまる。ここに仮の兵舎を築いたと見え、矢倉下、射馬が谷、馬責場等の小名が残っているところから考え合わせたのである。また勧降使の事は伝説第七と金子文書等にある元宅と交友のあった小早川の臣乃美兵部丞宗勝、井上彌四郎宗敬(景家 別名弥次郎、弥兵衛と間違えか?)及び井上又右衛門(春忠。井上資明の子。通称・又右衛門尉。隆景の側近として、権勢を振るう。隆景死後は毛利家臣に編入されるも、外様視されるのを嫌ってか、慶長六年に、子の景貞と共に出奔した。)等が寄せ手の陣に居た事による。

 

勧降使の帰ったのは昼過ぎであった。使節の交渉中も戦は止めなかったが、使いが寄せ手へ帰り着いてから主戦派の諸将はいきり立った。不屈の金子が何で井上輩の口車に乗るものか、無駄口をきくより軍人は戦が大事と与論沸騰して遂に一同総攻撃に一致した。城表の毛利軍は兵を三手に分け、福原式部少輔の一隊は金子平太夫(戦後落ち延びた)等の守る高築を攻めて之を陥れ尾尻川より西の土居の東端に向かい、一隊は宍戸彌三郎に率いさせ、金子久兵衛(戦後熊本県天草へ落ちた)等の固める寺門口に攻めかかり、元長自ら中軍を率いて金子神兵衛(戦後熊本県天草へ落ちた)等の死守する北谷口に攻め寄せた。【此の日(7月7日)】手詰めの戦であるので、何とかして一方の囲いを破ろうと、百雷の落ちるが如く喚き叫んで攻め付け、両軍火花を散らして戦ったが、累々と積み上げられた土嚢に阻まれて十分の一にも足らぬ城方に近寄る事が出来ないだけでなく、効力を発揮する弾丸は皆土嚢に当たるばかりであった、之に反して城方はありったけの鉄砲を持たせて近寄る敵を土嚢の陰から射殺し、効力を充分に表した。それだけでなく、鉄砲の無い者は土砂を掴んで土嚢の上から群がる敵の中へ投げつけて、まったく目も当てられない土合戦であったが、城方の投げる土砂は敵の鉄砲よりも鋭かったけれども、敵は大勢で新手を差し替えるが味方は小勢で代わる軍兵がない。身体中が汗と土とで真っ黒になって心身はさながら綿の如く疲れ果てたが、それでも勝敗は互角であった。このようにして三十分間余り戦った時、元長の新手は金子川の河岸にあった松の巨木を切り倒して十四五人掛りで抱えて来て、その一端を土嚢に打ち付け打ち付け、之を突っ込んでしばらく上面の二三俵を突き落とした。その挙に乗じて松の木を伝わって猿のように登って行ったが登る兵も登る兵も皆城兵の為に討ち落とされて逡巡するばかりであった。元長之を見て歯がみを為して部下を激励し、「誰か彼の土嚢に入る者はないのか!」と鞍を叩いて号令すれば、羽仁源左衛門が松の丸太伝いに馳せ登り、槍を以て城兵を薙ぎ飛ばすと、元長は馬上にのし上がり「羽仁を討たすな!者ども続け続け!」と叱咤されれば、名高い吉川家の星野(不明?)、天野、藤井(木工助 元直か、市川元教の謀反の際、雑賀隆利・内藤元輔らと共に内藤隆春・市川経好に与し、元教を誅殺した。)、児玉等の猛者共一度に駆け上がって遂に北谷口の一角を破った。この時土居の東方尾尻川の棚際で熊谷豊前守の軍と戦っていた土佐援軍の将片岡下総守光綱は北谷口の急を聞き、守備の兵を残して自ら百騎ばかりの手勢を率いて阿修羅王のごとく馳せ来たり、この口守備の兵と力を合わせ溢れるような吉川勢の真っただ中に躍り込み、さんざんに挑み戦った。戦いもたけなわになるに及び、片岡の軍中の熟練した老巧の武者武内(竹内では?不明?)、岡林(不明?)等の一隊は東口の熊谷勢を追い退け迂回して吉川勢の後方に出て、不意に起って敵を挟撃し、元長の旗本を突こうとしたので、さすがの吉川勢もこらえかね色めき立ち、柵外へ押し戻され逃げ足になった。大将片岡は勢に乗じ、柵を出て元長の麾下に迫らんとした時、流れ弾一発飛んで来て、馬から落ちた。(7月7日片岡光綱討死)従者が急いで抱き起こし、担いで柵内に入れたがしばらくして遂に事切れた。たまたま敵軍も最前の戦に疲れていたが、後方より引き上げの鼓が鳴って兵を退いたので此の日の戦いは終わった。

【此の日(七月七日)】の北谷口の戦に敵味方の死傷者は数えきれない程多く、屍を同じ穴に埋めた。今日の戦もどうやら互角に終わったが、城方には土佐援軍の勇将片岡光綱の戦死は大いなる打撃であった。その夜光綱討死の急使を土佐に派し城将等しめやかにその屍を弔い、首を布に包み従臣竹内又左衛門(不明?)、上村孫左衛門(土佐・植村城主上村氏は山田城主山田氏に従っていたが、長宗我部氏によって山田氏が没落すると長宗我部氏に仕えた。関ヶ原合戦によって長宗我部氏が改易となると流浪の身となったという。)、安並玄蕃(別称忠兵衛、一条家の中村四家老の一つ、安並家の一族で母は飛鳥井氏。永禄四年に一条氏の命で伊予の土居清良を訪ねている。後に長宗我部に仕えて中村中筋浜に所領を得た。長宗我部滅亡後は伊勢藤堂家に二百石で仕えた。)、岡林彦十郎(不明?)に護られて土佐に帰った。急使をもって先ず訃報を伝えたところ、留守城代家老藤田馬之祐政平(不明)はすぐに横目役四人を召し連れ、豫州表へ罷り越して、西條道筋にて主君の首級に行き会い、共に従って寺川へ帰り、そこから片岡村に入り、臣下一同と共に厚く弔い、自らは七月二十五日、樅木山瑞泉寺に於いて切腹し殉死を遂げた。一子十三郎に残した辞世に、「浮き沈む 世をばふるとも しめ置きし 筧の水はわれに手向けよ」

片岡下総守光綱

片岡下総守光綱は左衛門太夫と云い、源姓佐々木の一族であったのが、上野国片岡郡を領するに及び之を氏としたのである。その後左衛門太夫直綱應永十八年(1411年)辛卯、初めて土佐に渡り船先ず仁井の浜に着く、家士森田・森岡・矢野・勝賀瀬・楠瀬・西ノ内・大野等直綱を守護し、吾川郡の徳光村に至る。徳光庄司あり、遂に片岡の家臣となる。直綱彼の館に移ることに依って徳光を片岡と名付けた。その後一城を黒岩郷に築いて之に居る。その五代の孫が即ち下総守光綱である。

片岡盛衰記に曰く、片岡左衛門太夫光綱公の御時代徳光という城下あり、その頃長宗我部の御家へ交わり田地一万五千石にて侍の数百人取り立てたとあり、専ら仁淀川表諸方に御中住居あり、之は乱世の時分であるので要害であった為と言われている。

やがて片岡氏の御居城は法嚴の城といって黒瀬境の峯二十五間四方(45m四方)からなり、それより二十一町(2,290m)登るとかがりが森がある。片岡氏の時代にかがり火を焚いた場所であるので今かがりが森という。(中略)光綱公は武勇に秀でていた人で、なかなか当国(土佐)にも右に出る者がいない。御威勢のあまり、元親公の御頼りに依って、豫州金子陣に向けられ、御奮戦によって命を失われ、御養子光政公も又、天正十四年九州に於いて戦死されたとある。

片岡系譜に曰く、

天正十三年五月、羽柴秀吉公の命令により讃豫二州を差し出せば、土阿二州を領しても良いと言って来たが、元親は之を承諾せず、伊予一州をもって大命に答えたが、秀吉公是において兵を遣わし元親を征伐に向かわせた。羽柴美濃守秀長卿総大将とし、諸国の軍勢四国に渡り、元親兵を分け諸城に之を防ぎ、親光は伊予国金子城に士卒五百余をもって加勢に行き籠城し、毛利兵之を攻め、親光は城主金子氏によって城を守り功もあったが、同年七月七日城が落ち、城主金子氏は死に、親光も力戦すれども討死し、家臣岡林氏が骸を携えて土佐に帰り、吾川郡片岡に葬った云々

又、この戦に参加した土佐援軍の主立った人々は、

竹内又左衛門 上村孫左衛門 安並玄蕃 西尾孫兵衛 横山仁左衛門 五百蔵権助 松本久右衛門 上村四郎左衛門 川村新兵衛 田部吉之丞 竹村善九郎 竹内八郎左衛門 片岡左次兵衛 若留作次 入交次郎八 公文善九郎 岡崎輿左衛門 野村刑部 大石左兵衛 上蔵三郎太夫 入交左京 安森小伝次 松本源次右衛門 柵野輿兵衛 能津彌九郎 國澤伝之丞 片岡孫三郎 矢野武右衛門 川田平太夫 西村太郎兵衛 橋詰輿次郎 岩目地太郎右衛門 梶石兵部 關勘兵衛 信永孫太郎 同彌九郎

(388~389、390の一部ページの転写は省略/155名の名が記載)

その他従兵二百余人と云う。

 

片岡遺跡

片岡遺跡として伝わって居るものに、黒岩城址・臺住寺遺跡・片岡城址・岡本神社がある。

黒岩城址は黒岩村寺野にあって、今黒岩小学校の敷地である。

臺住寺遺跡は山号を明鏡山と称す。片岡氏の菩提寺であり、大永元年徳光城下より黒岩に遷したものであるという。維新後廃寺となり、今僅かに堂宇を存し、茶園堂の古跡を偲び、臺住寺所蔵の片岡光綱碑名に曰く、

前総州大守賓山珍公天正十三年乙酉七月七日 豫州金子陣討死。

片岡城址は片岡本村にあり一つは黒瀬境の峰岡本山にあり、昔法嚴城と称す。今は岡本神社を奉祀す。一つは神明山にありその故地は今片岡公園と称し、士民游眺の處となって居る。

岡本神社は、法嚴城の故地岡本山にあり、創立の年月詳らかではないが、元治元年甲子十一月之を再建したという。祭神は片岡光綱公である。

尚、片岡公?記及び岳陽懐古と称して片岡光綱父子の事を歌った唱歌があるが省略する。

 

前章元宅年譜の項(220頁参照)に於いて述べた通り、元親は毛利軍に対する押さえとして金子方面へはその弟親泰を派遣して金子城を救援させる予定であったが、中国の武威に恐れた親泰は土佐の主力部隊と離れて東予に出援するのを喜ばず、自ら請うて阿波牛岐城の守将となった。吉田家由来書によると、『秀長四国攻めの時、江村孫左衛門、親泰の手に付いたが、親泰が言うには、寄せ手は大軍味方は小勢であるので合戦は難しい。土佐の本城へ退くのが良いと。孫右衛門が言うには、上方勢の手立てを見ずに引き揚げることは良いことではない。一戦の上退くべきである。しかしそうでなく引き退くのであれば、元親公の御心に叶わないであろう。それでも退却なさるのであれば、元親公へ伺ってからにされよと諌めたが、親泰はそれを聞かずに孫左衛門に告げずに引き退いた。夜が明けてみると味方は一人もおらず、具足なども取り捨ててあるので、孫左衛門はそれを集めて、追って土佐へ帰った。』とある。思うに親泰は才智があって外交の事には慣れていたものの、軍事にかけては談ずるに足りず、自然と勇将金子等と意が合わず、元親の命に従って金子援軍の事を拒否したため、片岡、花房等が代わって来援したのである。高知県史要によると、親泰は文禄元年十一月二十四日長男彌七郎親氏を朝鮮の役にて亡くし、子に替わって渡韓の途に着いたが、同二年十二月二十一日長門にて病死したとある。

金子城西方攻防戦(伏谷の戦い)

城の表口の守備は割合に強固なので、元長は王子山の砦に拠る一隊に命令して御茶屋谷方面から金子城の西面を襲わせた。城兵は之を察知して元春は一族金子次郎左衛門(戦後落ち延びた)・同久左衛門(?)・真鍋四郎右衛門(?)等を将とし、圓明寺山の西に兵を出し、幾多の旗々を翩翻と翻し、兵を大勢と見せて堂々と陣を張り(現今の陣張谷の地)更にその西に杉檜の大樹が鬱蒼とした密林の谷がある(現今の伏谷の地)。そこに兵を百騎ばかり伏せた。

王子山の敵兵は合わせて千騎を超えた。大将の指揮の下に南の岨伝いに陣張谷に突撃して直ちに之を抜こうとした。金子勢は暫く防戦して之をさばいていたが、負けを偽り御茶屋谷方面へ潰走した。寄せ手は之を追撃して圓明寺山に差し掛かった頃、兼ねて伏せて置いた伏谷の伏兵が一度に閧の声を挙げて寄せ手の背後に斬り掛かった。此の鬨の声を合図に御茶屋谷まで偽り負けた城兵は取って返し、僅か二百騎程の兵が千五百騎の軍勢を東西より挟撃した。敵方は大勢であったが、地理に暗く、樹木が林立して槍や鉄砲を用いることが難しく、しかも山坂なので思わぬ敵に追い立てられ、その狼狽する様は猫に追われた鼠のように転びつまずき、谷間に捲り落とされ、ろくに戦いもせずに数多くの死人怪我人を出した事は見苦しい有様であった。

敵将之を見て「相手は小勢であるぞ!かかれかかれ!」と下知したが、浮き足立った毛利勢はただ狼狽するばかりで、あるいは田甫伝いに王子山に引き揚げるものもあり、あるいは槍や鉄砲を捨て、刀を抜いて城兵と渡り合うものもあったが、寄せ手の陣形の整った時には味方の兵は御茶屋谷と乾櫓から城中に引き揚げて、此の口の合戦は見事に城方の成功に帰した。【(七月八日頃)】

 

東の方では、寄せ手は北口へ寄せ来て、前日に崩れかかった攻め口もあるので敵方は随分無理な戦を為し、味方の将真鍋四郎左衛門は馬を陣頭に進め、叱咤号令し、鉄砲組は足軽葉武者には目もくれず、大将のみを目当てに射撃したので、毛利勢、中野上右衛門尉(?)、市川五郎衛門(?)、宮ノ庄太郎左衛門の家人神保某(?)等皆討死し、味方にも鉄砲組、足軽大将等多くが討死したが、それでも土居構は尚破れずに踏ん張り続けた。そしてこれ程の味方の死傷にも城兵はよく意気を喪失することなく戦い通した。

 

西の方圓明寺山、御茶屋谷方面では、【今日(七月九日頃)】も随分華々しい戦いがあったが、何せ山坂と密林中の戦いで、山谷を駆け回る金子勢は地の利と軽装な出で立ちに能率を挙げた。城兵は多く刀ばかりの兵であるから、武器がより多く性能を発揮しているだけでなく、太刀打ちの術においても金子勢は毛利兵に劣りはしなかったので、敵勢の前に後ろに右に左に躍り出て昨日にも勝る勝ち戦であった。【(七月九日頃)】

 

根拠

毛利家文書に依れば、天正十三年五月八日、吉川元春同元長等、こたびの戦に臨み、其の臣、湯原豊前守春綱・同弾正忠元綱・小川右衛門兵衛元政に命じ、武器は鉄砲・尺鎗・ハセ緒等を専用とし、其の他の兵器は無益であると命じたことに因る。又陣張谷・伏谷は地名の考証により、其の他は西之土居古老の語り草による。

金子城包囲戦

城の西部の戦は寄せ手に手痛い損害を与えたので毛利軍の諸将等、西口の攻撃を中止し、どうしても城の表面を破らねばならぬと決心し、王子山の砦には僅かの守備を置き、此の方面の囲いを解き、大部隊の兵を東に廻し、元長の兵全部と福原・宍戸の率いる東兵全部を合わせ、兵を一カ所に集め、急遽突出、一方を突いて彼の土居の中へ陣を進めよう、彼の土居を一カ所でも打ち破れば、勝利は明らかである。兵も惜しまず、弾丸も惜しまず、手詰めの一戦をしようと、その兵数おおよそ一万を金子の城面・滝の宮・上棹・高築から尾尻川・六地蔵・河内辺りまで(金子川の内側、滝の宮町~河内町迄)殆ど敵兵で充満されていた。此の日寄せ手は攻め口の持ち場を替え、吉川は東口に、福原は北谷口に宍戸は寺門口に廻った。此の日も天気はすこぶる良く、朝日が谷間の薄もやを払いのけると、そこには遥かに城砦が見える、中央出丸にも乾櫓にも、大手城戸口にも東櫓にも七ツ亀甲の旗が朝日になびいて居る。城兵は陣構えをして【今日(七月十日)】の戦いを待っている。

今日迄の戦は隆景の方針により、永陣を厭わず、兵を損なわない様に、新手を入れ替え入れ替え攻め掛かったが、今日の寄せ手は損傷をかまわず、総攻撃をしようとしている。城兵もまた必死の覚悟で馬淵口・滝の宮口・上棹口に各五十騎ばかりの番兵を置き門を閉ざし固め、全部の兵を土居構に出した。

戦は東の固め(地神様の所)から始まり此の手の福原式部少輔の手に三村左衛門尉(?)と云うものがおり、土居構の土嚢の下に取り付き、矢玉をしのぎ、何れかの隙に土居を乗り越えようと伺っていたが、身を躍らせて土嚢に飛びつき、上に積まれた二三俵を引き崩すと、その後から兵どもこれに続いて一俵二俵と引き崩し、遂に三村只一人土嚢の上に飛び上がった。城方では土砂鉄砲をむやみやたらに射掛け投げ出したので、さすがの三村も打ちのめされて遂に討死したが、その後から勇猛な兵が十人、二十人と続いて侵入するのを、味方の射出す鉄砲に当たって倒れる者もあり、転ぶ者もあったが、その後から身の丈抜群の鎧武者、渡邊源介(?)と名乗って、たくましい黒馬に打ち乗り、一鞭当て当て土居の崩れ目から駆け上がり、空堀を飛び越え近寄る兵士を右手左手に切り伏せ切り伏せ戦っている所へ、ここの守備に当たっていた野々下右衛門勝政(正)(名古城主、落城後金子城に退き籠城)が馬を躍らせ、陣刀を真向に振り回して斬り掛かった。互いに追いつ追われつする内に野々下の馬がサツマイモの蔓に足を絡まれて馬は屏風を倒すが如くその場へどうと打ち倒れた。野々下落馬して起き上がろうとしたところへ敵兵折り重なって之を討ち、その首を挙げて逃げ帰った。

 

根拠

野々下右衛門サツマイモ畑にて戦死したことは、元金子村の住人野々下高助夫人(現在東京牛込矢来町居住)の談による天正十三年七月十日金子城下西ノ土居討死 大智院殿徳勇日健大居士 此の野々下右衛門を普通勝政とするが、子孫の説に依れば友政または正明であるという。又正明をもって天正十年七月十日没とあり、あるいは誤記か三人別人か同人か未考。

 

【此の日(七月十日)】、寺門口・北谷口にも火の出るような激戦があったが金子平兵衛(?)・真鍋佐渡守安政(同家綱長男。金子城で討死したと言われるが、その墓碑や記録は無く、金子城落城後、元宅の子女を土佐へ逃がしたと思われるが、土佐にもその形跡は無く、末路は不明。)・同苗佐兵衛(右京亮兼孝の婿養子、真鍋助右衛門兼昌の子か?)・白石若狭守清元(老功の武者、軍奉行※上列へ)・橘右衛門定久(?)・飯尾駿河守義雄(岸の下の仏光山阿弥陀寺を天正之陣後、金子氏並びに飯尾氏の善提寺として創建した。)・岩佐甚左衛門(野々下右衛門の郎党)・岡田七左衛門(野々下右衛門の郎党)等兵を督して土居構を死守し遂に事無きを得た。

【その翌日(七月十一日)】はまだ夜の明けきらぬうちから戦が始まった。昼頃からはまた灼け付くような酷暑であった。毎日の疲れと暑さに敵も味方も疲れ果てて戦の合間合間には潮のような睡魔が押し寄せた。殊に寄せ手は一日中炎天の広野に立ちどうしで寸陰を見ないのと飲料水の欠乏とで、その苦痛は名状すべくもなかった。城兵には木陰があっても、無勢な為に夜もろくろく寝ることが出来ず、将も卒も疲れ切っていた。兵の内には「眠りながら首を斬られたらどんなにかええ気持ちじゃろう」と夢見心地でこんな途方も無いことを想像するものもあった。それは決して自棄でも負け惜しみでもなく、誠に疲れ切った人の甘美陶酔の境地であった。寄せ手も大将株は交替に天幕の中で休養するので、元気を快復し兵を下知してしきりに「かかれ!かかれ!」と号令するが、兵士等にとっては、「戦功も感状も要らぬ号令はむごいものだなー、そんなに土佐犬みたいにけしかけなくても敵はどうせどこへも逃げはせぬ。夜の間涼しいうちに戦をしてはどうか。」などとほざく輩もあって、大兵の割合に軍は鈍く、ここへ攻めて来たしょっぱな三日目頃の勇気は無かったが、それでも流石は千軍萬馬の間を往来した毛利軍の大将だけあって、兵を労り労り、一隊ずつ絶えず休養させて戦を継続した。

金子城への総攻撃

しかしながらこの小城一つにあまり長引いては士気を沮喪するので寄せ手の将元長は福原・宍戸・湯浅等と議し、今日は城兵の疲れに乗じ、いよいよ最後の総攻撃を決行することとなった。

【(七月十二日?)】昨日の一斉攻撃に城兵の疲労は例えようもなく、敵兵は大軍を擁しているので兵将は一隊づつ交替して休養させておいて、寅の刻(午前3~5時)よりまたまた総攻撃を開始した。第一番に寺門口に攻め込んだ主将宍戸元秀の率いる一隊はたちまちにして此の口を破り、東口(地神様の前)は福原元俊の手に破られ、混雑の中に北谷口も吉川元長の麾下の為に破られた。城兵は山際(現今の北谷庵付近)に死守して屈しなかったが、衆寡敵せずここも遂に破られ、中央出丸に引き揚げ、各自ここを死に場所と定めて防戦大いにつとめ、頑強に踏み堪えた。

城方の大将株は今日を限りと思えば、代わる代わる名残惜しく本城の一之曲輪に走り帰り主将元春に別れを告げて、中央出丸に引き返した。今日の戦はとても開運すべきにあらずと云えども残念なのは兵糧弾薬は尚お豊富であるのに、彼我の勢雲泥の相違にてしかも、灼熱の暑気に蒸され軍と酷暑に倒れるもの数知れず、後詰めと頼む者もなし。数日の戦に兵士は残り少なに討たれ、雑人ばかりになっては所詮戦は叶い難し。ただ此の上は思うままに手詰めの一戦に華々しき最期を遂げんと、群がる毛利軍の中へ押し出し一息吐き、又手勢百余人を従えて中の出丸下に屯した敵の先勢を追い立て、真っ先に進んで戦うも、流石の毛利家の大軍、名を恥じる家臣が多く岩石の屏風を立てた様に少しも動かず、金子の将士死を覚悟した太刀先は鋭いものの、酷暑と数日間大敵と激戦したことで疲労困憊を極めているので、勇気余って体力続かず、目に余る多勢に打ち勝つべくもなく、すぐにただ首を敵に授けるものあり、刺違えて死するものあり、腹掻き切るものあり、死屍算を乱し血河杵を漂わし、酸鼻の有様名状すべくもなかった。

【此の日(七月十三日?)】の暑さはまた格別であった。太陽は憎い程灼け付いて、微風も無い、諸々の砦で打ち破られて生気なく息も絶え絶えに逃げて来た血みどろの兵も将も、大藪と福壽谷へ逃げ込んで本丸に入ろうとするらしい、鎧や兜の中からほとばしり出る玉のような汗を流しながらぼたぼたと鎧の隙へ風を入れてしどろもどろに歩いて駈けて来る。顔中は土煙や弾薬のほこりに塗られて真っ黒い中に目ばかり血走って光っている。鎧の草摺はところどころちぎれて血潮がにじんでどす黒い浸が付いている。灼けるような暑さに皆口を開けて吐息をついて居る。その唇も舌ものども胃の腑もすっかり干上がっている。

大藪の中には二間四方もある大きな井戸「チヌの池」(※直径5メートル程の源泉池が竹薮の中に残っていたが太平洋戦争時の農地開発で無くなったとのこと、著者が記したものはこの時代のもので、当時のものではないか。)から玉のような泉がコンコンと出て、井戸の周囲には五合も入りそうな柄杓や水桶が十ばかりも浸かっている。渇き切った兵将は飛び込みざま柄杓や水桶を奪い争って貪り飲んだ。待ちきれない兵等は手にすくって咽を鳴らして飲んだ。飲んですぐに打ち倒れてこと切れた者が沢山ある。その死体の漬かっている水を皆すくって飲んでいる。誠に飢渇の鬼とでも言うべきであろう。尚、兵の中には飢渇に迫られ伏せつまろびつチヌの池付近まで来て「水!水!」と絶叫して倒れている者もあるし、そこまで辿って来る事が出来ずと、めちゃめちゃに踏みにじられた薮の中に死体となってうつむいたり、打ち重なって死んでいるのや、傷口から出る血潮を吸って死んでいる者もあった。

東兵への小早川援軍(馬淵口の戦い)

隆景は丸山と高尾の間にあって、用意周到に攻撃軍を指揮していたが、絶えず使いを派して金子城を攻撃している東兵の動作に注意し、常に戦況を聞き、或は井上某を派して降伏を勧めてみたがそれも期待に反し、加えて寄せ手の作戦はいつも思わしくないことを懸念していたところ、東兵功を急いで総攻撃を為すと聞き、その子秀包に旨を含め、包囲の兵を割いて金子に到り、東兵に力を合わせさせた。

 

萩藩閥閲録中にある秀包覚書に「金子左近允入道の拠る伝兵衛の其城」とあるのは此の金子城のことは明らかである。また「同文書に同州宇摩郡表へ金子城から五十騎ばかり命懸けの大物見を行った(秀包の兵が)」とあるのは、金子城から五十騎ばかり宇摩郡まで物見に行く筈無く、天正十三年譜によれば新居郡の征討が完全なものとなった後も、七月二十七日付、秀吉の命に、宇摩郡攻め入りには秀長と強調すべしと説き、また元長の書状にも本陣(阿波一の宮)秀長の返事次第にて、五日以内に陣を宇摩郡に進める予定であるがそれまで待機中であることを明記している。金子城落城まで宇摩郡に関係が無い事は論をまたない。よって之は金子城の南続きに馬淵というところがある。丁度高尾から入って来て金子城を攻める要部にあることは地図の示すところである。即ち金子の兵が馬淵で物見をして居れば、高尾から来る敵兵を手に取る様に俯瞰する事が出来る(前章金子城の地形と要害と防御工事の頁参照)から之は馬淵に間違いない。秀包戦勝後郷国に帰り認めた覚え書きで不正確な記憶を辿り書き記したもので馬淵とすべきを宇摩郡と誤書したことがありありと窺われる。

金子城落城

【明ければ天正十三年七月十四日】東雲鶏の告げ渡る頃、小早川秀包は兵を率いて馬淵に押し寄せた。城の表には毎日剣撃と砲火の火花が散ったが、ここは金子の城背になるので滅多に敵が寄せるところではなく、手勢僅かに五十騎ばかりを引具し、土佐兵の隊将花房新兵衛がここを守っていたが、寄せ手を見て「すわ敵寄せたるぞ!一戦に蹴散らせよ!」と腕を扼して待ちかけた。秀包は此の時が初陣で大事な戦であったので、怪我、過ちのない様隆景は一族の猛者と三村勢の一部をすぐって手勢二百騎を付けて置いた。双方小勢なれば、東西に駈け合わせ入り乱れて戦い、秀包は花房新兵衛と槍を合わせ互いに秘術を尽くして戦ったが秀包の兵平賀対馬(?)、若殿の一大事と馳来たり、助けて遂に新兵衛の首を取る。大将討たれて味方は気を喪い、その敗北のさま、目も当てられず、遂に横水・滝宮口に逃れ去った。

此の口は敗れたけれど、山嶮しく、本丸には尚十六、七町(1,745m~1,845m)もあるので、にわかに攻め寄せることは出来ず、そのうちに横水口・滝宮口の兵と本丸の兵は急を聞き駆け付けたけれど、敵兵揉みに揉んで押し掛けたので城兵遂にかなわず、皆逃れて本丸に入った。此の時城面の諸砦皆破れ、中の出丸も落とされたので、元長・元俊・元秀の軍は皆本丸表城戸口に廻り、馬淵から押し登った秀包の軍と力を合わせようとした。馬淵から滝宮口の峰の尾には徒歩立の敵兵が現れてやがて槍のきらめきが次々に木の葉の間に小松の上に数を増し、近づいたと思うにわかに起る鬨の声、攻鼓の音に天地も轟き、如何なる鉄壁堅城も微塵になれと急あられの如き鉄砲を射ち放し、早や城の木戸口十二カ所を崩され城中は憂慮に重苦しい気分が漂い、いずれも黙然たるばかりであった。それでも此の本城は附近第一の要害にして何れを見ても八合目辺りからは切り削いだような断崖、中でも表城門に至る一筋の細道十余町(1 km強)千仭の懸崖に望んだ羊腸、一夫怒って關に臨めば万夫も通りがたしという難所で、攻め口には大木を押し倒して逆茂木を設け、しかも登り口は雁木坂になり攻め口狭く、容易に進み兼ねた。しかも敵方は坂道にあり、弾丸の詰め込み自由にならず、兎角ためらっていたら、城中より此の体を見すまし、金子孫八郎家綱(船屋の伝説、金子城落城後高尾城へ行ったか?)は兜をも着ず兵の上に立ち現れ、「此の所の先勢は小早川殿の御身内と覚えたり、天晴よき敵なれば日来たしなみ置いた金子勢の鉄砲の手練御目に懸けん」と、兵に下知して一度にどうと打出せば、先陣に進んだ村上・庄・末田・木梨・眞田・藤井・白井・林・平・平賀・富田・矢田・上里・池上・和久・皆部・宮川・深野等予め用意していた一枚楯を衝並べ、一寸も去らず、攻め付け攻め付け戦って【酉の刻(午後6時前後2時間)】に及んだので、敵味方討死するもの数知れず、容易に落ちる様にも見えなかった。けれども木戸口には秀包の軍、中の出丸には熊谷・益田の勢勝ち誇る大軍を擁して金子勢の皆殺しを期している。金子勢は一朝にして釜中の魚の苦境に沈んだ。

毛利軍の先鋒熊谷豊前守元直・益田越中守元祥等中国武者の荒度胸烈しく、下知を伝え有る程の弾丸を詰め替え詰め替え鉄砲の引き金の利かなくなる程打ち掛け打ち掛け人を以て空堀を埋め、味方の死骸を飛び越え飛び越え手負猪寄せに寄せ掛け、人をはしごのようにして、上れ上れと兵を励まし、ようやく大手の門に取り付いたけれど、城壁は固く、容易に乗り入る事が出来なかった。此の時城の大将自ら先頭して城門を開き城壁に取り付く敵兵を蹴倒し、真っ先に進み来る敵将吉原小兵衛・小河内茂助を斬り、金子左近允入道は豪勇光永助右衛門(?)を倒し、又城の侍大将金子介左衛門(?)は敵将鼓左門就時を討取り、敵味方の目を驚かすばかりのはたらきをし、猶も声を枯らして士卒を激励し、大木・大石等を投げ打ち落としたので、敵兵はあしらい兼ねてどっと退き、新手を差し替えてまたも攻め上る。このように何回も何回も城兵の鉄砲隊以外の者は土砂、石塊を投げつけ、あるいは城の石垣に取り付く敵兵を蹴倒し引っ掴んで放り投げたので、敵は人つぶてに悩まされた。城兵猶も諸道具、什器等までも投げかけよと呼ばわったので、城兵はこれに気を得て、力を合わせ塀囲いを押しめくり、石垣を崩し落とし、手に手に石を取って打ち掛け、あるいは材木を投出、諸道具をまくり落とし、鍋釜までもなげうつこと雨あられの様であった。寄せ手之に打たれて少しの間に即死負傷するものが山のようで、かれこれ30分に及んだが未だ城郭に上がることが出来なかった。敵の後続部隊は背後に群集し、木の下、岩の陰、どこを見ても鎧武者ばかりだが、攻め口が狭いので、後ろからむなしくその様子を見ているばかりであった。城中からは先刻から諸道具を始め、手槍、竹槍までも投げつけたので、敵将が思うに「城中から兵糧の道具まで投げ捨てているのは、今日を限りの覚悟とみえる。無理に攻めて兵を損ずるのも意味が無い。殊に攻め口が山の尾根なので、休む木陰も無く、灼熱の西日を受けての戦闘に、将も兵も疲労は軽くはなかろう。一息入れて夕方に攻め掛かろう。」と引鐘を鳴らし、山の木陰に士卒を休ませた。この間に大将金子元春は伊藤・白石・真鍋・金子・飯尾・三島・黒川等と城内に引き揚げたが、いずれも疲労して肉落ち、骨露れ、息も絶え絶えの上に、深手薄手の五カ所七カ所蒙っていない者は無い。城中では胡床が倒れ、楯が四散し、暑さの為に兜を脱ぎ捨ててあるなど、一面に散らばって、その中に水桶が十も並んで居る。皆チヌの池から汲み上げたものである。

元春は兵をいたわりながら「さぁ水を飲め!」と自ら先ず柄杓に一杯息もつかずに飲んだ。忍びの緒が汗ににじんで、血と一緒にべたべたと頰にひっついた。鎧の下着はべっとりと身体にまとわりついて、内兜からは汗の悪臭が散っている。旗侍が旗をささげているが、憔悴の極み、黙々とうつむいている。その後ろから兵が刀や槍の折れたものを地べたに引きずり引きずりいずれも口を開けて額から顔一面土塵に塗れて、大抵の者は裸足のまま血をにじませた者や、鎧を脱ぎ兜を捨て、半裸になって引き揚げて来たものがあった。彼らはいずれも水を見て目を光らせ、喉をならして争い飲んだ。その中に中央出丸や檜林・北谷口・寺門口・東口の敗兵も追々本丸に登って来た。本丸の直ぐ下の大藪を潜って折れた槍の柄や竹槍を杖によろめきよろめき本城へ這い上がって来る者が続々とあった。

その中に、背の高い兵が色々縅の大鎧だの銀造りの太刀だのを佩いた、相当の将と思われる人を肩にして登って来た。その大将こそ、北谷口で奮戦した城将の一族、金子神兵衛であった。

大藪から上がって来た血みどろの兵者、太刀を杖にした大兵の豪傑らしいが土塵に塗れて顔が判らないが、近寄って来るので橘彦右衛門定久(?)であることが判った。大将元春に向かい「今朝からの戦、我が手の兵ことごとく討死、今はこれまでと見えますが、この所まで参りましたのは、今一度殿にお目にかかって後は、兎も角もなろうかと思いまして…」と後は言う事が出来なかった。元春は涙をはらはらとこぼしながら、定久の手を執り、自ら水を酌んで与えた。定久は頭を地につけて再び言葉を発する事が出来ず、唇を柄杓に触れただけで倒れた。城門の外には敵兵の凱歌が挙った。

城の書院の東縁にドッカと座った金子左近允はおもむろに鎧を脱いだ。身体中は血であった。声を励まして皆に向かって言うには「今一度敵陣にかけ入り討死しようと思うが、このように身力衰えてしまったからには、敵に向かうことは思いも寄らず、いたずらに無駄死するのも武士の恥辱である。今は一同自害するより他に術はない。されど一同が自害してしまっては家名断絶の人々もあるであろう。子息の中、年若き者は皆落ち、土佐方と一つになって武運を開き方々、我等の最後の有様を伝えてくれないだろうか。戦も思ったようにしたので、今は思い残すこともないので、我は潔くこの所に自害するので、各々方の中で、まだ働けるだけの者は元春・孫八郎等と共に今宵、御茶屋谷に落ち山道を越えて高尾に赴き、あわよくば元宅に会い、我等の最後を告げ、なお彼の所にていずれも元宅と運を共にされよ。高尾の城はまだ暫くは保つべきぞ」と諸肌脱いで腹一文字に掻き切り、うつ伏せになって死になされたので、姻家の真鍋佐兵衛、日頃の恩に感じ追腹を切った。残る者共の中で、傷つき立つ事が出来ないものは思い思いに自害して跡を慕い、その名ばかりを残した。

ほの暗くなった頃、本城の東南に突き出した表城戸口下に又敵兵が密集して、喚声を挙げ、揉みに揉んで攻立て、攻撃すこぶる急であった。城方の将真鍋佐渡守安政・同近江守兼昌、その子四郎左衛門兼之・白石若狭守清元・藤田大隅守重利・飯尾駿河守義雄・忽那四郎兵衛通実(忽那島より兄で本山城主通恭と共に援軍、兄とともに金子城にて討死した。)を初めとし、伊藤・三島・黒川等宗徒(※むねと“主だった者”の意)の輩、死守して屈せず、衆に先んじて突撃し、声を枯らして士気を励まし、兵には幾段にも鎗襖を作らせ、敵兵を門内に一歩も入れさせまいとした。諸将等味方の槍隊を差しまねき、自ら太刀を水車の如く振り回し、身を挺して敵中に突進し、四角八面に斬りなびけ、血しぶきを浴びて敵の首・手・胴等を斬りまくり、大いに味方の陣形を立て直したが、真っ先に進んだ忽那四郎兵衛通実、哀れ敵弾に当たって乱軍の中に倒れた。諸将機を見て門内に入り大城戸を閉ざし、その狭間からあらん限りの鉄砲を撃ち出し、或は木石等を打ち落として敵の侵入を防いだが、刻々落城の色があざやかになってきた。味方の必死の防戦も桁違いの兵数の為に、戦闘の効果全くなく、到底敵兵を食い止めることが出来なかったので、城兵今は全滅を期し、切り死にを覚悟した。

この城の四面九合目以上は屏風を立てたような絶壁であるので、一人がよって守れば、万人も進み難い地形にあるのと、日が既に暮れたので、敵将評議して必ず落ちる城なので、明日今一度寄せに寄せて後落とすほうがよいだろう、無理な夜攻めをして窮鼠猫を噛むという諺もあるので、今宵に限って落とさなくても明日早朝に攻め懸かろうと評議一決し、寄せ手の陣後ろから引き揚げの鼓声とうとうと響いたので、寄せ手は軍を中央出丸と地獄谷の尾背に引き揚げた。

敵方は今日の軍を休め、翌日を期してこの城を乗っ取ろうとしたのであるが、味方は毎日の力戦一合せごとに人数を損じて、敵の新手は加わるばかりで、城勢は激減、もはやこれまでと思う。城将元春は残兵を一所に集めて退散するように命を下した。すると気の早い一隊は、夜6時、城の南に敵が造っている返り鹿垣を切り破り、乗り越えて切り抜けようとしたが、吉川勢が集まってきてことごとく切り伏せられた。そこに主将の一族は身をもって将卒を庇い、「手負のものを先に逃がせ、先を争って怪我をするな、再挙を図る為に逃げるのじゃ、命惜しさに落ちるのではないぞ」と敗軍の将卒を諭し、しんがりの中のしんがりをつとめて、お茶屋谷方面から山伝いに逃げ延びたのである。その主な者は、元宅の四子をはじめ一族金子介右衛門・同介左衛門・同平太夫・同久兵衛・同久左衛門・同神兵衛・同次郎左衛門・白石市介・同九郎右衛門等をはじめ、一族郎党(元親の天正検地帳による)約三百余人がようやくにして土佐へ逃げ去ることが出来たが、大将元春は無事に兄元宅の子女と一族郎党を逃がすため100m駈けてはまた立ち止まって、追っ手を防ぎ、200m走ってはまた後の敵に斬って入って幾十度となく返し合わせて戦う程に、敵のうち出す雨あられのような弓鉄砲に深手浅手数多く負ったけれども、味方は逃げ足早く、元春を助ける者も無く、遂に乱軍の中、討死した。元春の首は三村紀伊守の手のものらが、落人多数討取った中にあった。

こうして吉川勢の中に山県源右衛門・綿貫権内・江田新右衛門等いちはやく城内に侵入して逃げ遅れ戦に疲れ果てた兵士の首を取る。その次に井上又右衛門駈け合わせ金子の祐筆の首を打つ。熊谷豊前守・益田越中守等先陣にあり、真っ先に乗り入れて数多くの分捕りを為した。秀包の率いた小早川勢及び吉川勢には裳掛孫左衛門・松岡安右衛門・井上左馬允・朝枝信濃守・桂五郎兵衛・三吉九郎兵衛・野上右衛門允・市川五郎右衛門・今田内蔵允・宮庄太郎左衛門・香川兵部大輔の郎党三宅源之允・軽輩新三郎等僅かの人数城中に飛び入って逃げ遅れた城兵を討ち殺し、数多くの兵器を分捕り、功名を表した。その他、小早川勢並に毛利軍の手に討取られた首数知らずといえども、皆追い討ちにして一人も城中に乗り入り太刀打ちはしなかった。よって寄せ手は兵を損せずしてこの城を占領することができたのである。

金子城は弘安年間(1278~1287年元寇の時)金子頼廣以来拠守し、元宅の代に至り大規模に修築した金城湯地であって、中国の大軍中輝元直属の兵は主として之を攻め中程より吉川元春(元長か?)参加し、大部隊は金子城を目標に攻撃したため、遂に衆寡敵せずして落城したのである。この金子城は高尾・高峠の前衛にして、之を陥れることは二郡の耳目を奪うことに当り、この落城は敵軍にとってどれ程喜んだか分からない。

【この日(7/14)夜6時】落城し、軍陣の疲労も厭わず攻囲軍は直ちに竹子(?)(高尾付近)に到り、小早川隆景と対談し、戦勝を告げ、その夜すぐに元長・隆景両将の名をもって秀吉に対し書をしたため、金子城を攻城し、長宗我部の後巻(援軍)を切り崩し、数多く討取ったりとの報告を発した。その書が七月二十一日大坂に到着し、秀吉の披見するところとなったので、秀吉喜びに堪えず、即日返書を発した。その要旨に曰く「本月十四日発其の方の書状披見す。金子城落城の由、しかも土佐勢後巻せるにもかかわらず、之を切り崩したるは武勇感ずるに余りあり。なお宇摩郡への進発の場合は実弟秀長と談合して事を図るべし」とある。この書毛利軍の陣中に到着したのは同月二十八日頃である。なお、安国寺恵瓊も同十四日付元長・隆景等と同様の書状を発し、やはり二十一日付秀吉より同様の返書を受けている。

 

考証

七月十四日金子城落城刹那の事は「南海治乱記」中の金子陣「毛利家御軍記」、「陰徳太平記」「吉川奮記」「同證文」「同温故集」「吉田物語」「一斉留書」等にすこぶる明瞭に書いてあるのは嬉しい。このほか「萩藩閥閲録」中「秀包覚書」、金子城戦死者子孫の家記伝説、「小松邑誌」「鼓文書」及び同系図「忽那文書」及び同系図「土佐物語」中の金子陣及び伝説一・三・四等に依る。

 

ここに藤田大隅守重利(俊忠か?)というものがいた。岡崎城を出て金子城中にあったが、頼りに思う久右衛門・新三郎は高尾に至り生死の程も知る事が出来ない。幼児彦右衛門(幼名彦太郎)は故あって膝元にあり、無邪気に母を慕い戦渦を恐れて泣き叫ぶ、愛妻と召使い等皆四散して居所が分からない。幼児を託す人もなく、己は戦に疲れ、子は飢渇にせまる。気力既に抜けて野辺の草むらに打ち臥す。折しも【七月十四日の夜半】は静寂にして悠久の天地平和の自然、さながら人生の榮楽をあざけるが如き月光は、既に傾いて物見櫓に落ち鎧の袖に置く露はしげくして涙の如く、とどめあえぬ哀情に、涙の袖を絞り、焚き捨てた篝には一糸の煙、消えがてに残りてとても心細い。大隅守は子を膝に載せ、幌や笠印などで覆って露を凌がせた。夜更けて人定まるに及びて万感胸に迫り、思わず?を呑む。たまたま歩み寄る人影があり、ハッと肝を冷やしたが敵ではなく、今日の軍に戦い疲れて喪心した戦友であった。共に寄って之を慰めたが、元々同じ運命の人、ただお互いに抱き合って武運の拙さをぼやくのみであった。しばらくして涙とともに共に袂を分かち夜が明けぬ間に元気無く歩き、どこへともなく逃れ去った。

根拠;天正陣実録に曰く「ここに岡崎の城主藤田大隅守信重は妻子の愛に引かされ落ちて行ったが、石川の物見の侍に討たれそうになったが、其の期に及んで浅ましき未練至極の事共あり」とあり、又西條誌に曰く「大隅守は福島左衛門太夫正則の家老藝州三原城主大崎玄蕃と由緒あり、暫く寄食して後故郷である郷村に帰り、病死した。その子彦兵衛以下農民となる云々」とあるによる。